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いつだって自分自身に「いいね」を贈ろう
2年ぶりの投稿。
その間にも実は何度か書きかけては、中途半端な下書きのまま眠っている記事があるのだが…。
今から約2年前、退屈で変わり映えもない日常から抜け出したいと一念発起。このアカウントを作成しいくつかの投稿を始めたのは、自分の中でかなり大きな一歩だった。
始めたばかりで当たり前ではあるのだが丹精込めて書いた記事が全然見てもらえない。
いいね(スキ)がゼロなんて投稿もしばしば。
飽くまで自己満足な投稿なのだからそれでも良いと何度も言い聞かせようとしたが、心のどこかで満たされない、悲しい虚しいと嘆く自分がいる。
(いや、10投稿にも満たない段階で挫けるのさすがに早すぎじゃね?って思ったあなた、私も全くの同感ですよ…)
それは何故か?自分の中で結論が出た。
ズバリ「承認欲求」。
これはかなり厄介な存在なのだ。
誰の目にも留まらない、いいねしてもらえない、私が生み出したこの記事はつまり世間大勢から見て価値がないものなのだと。
さらには私の考え方、文章、私というものの存在までもが陳腐で誰からも興味を持たれない。誰にも認めてもらえない私には価値がないんだと本気で思っていた。と、今では気づけているが、当時はそこまで認識できていただろうか。
私は仕事においてもプライベートにおいても常に他人軸で、他者評価ばかり気にして生きてきたからだ。
自分というものをすっかり見失っていた。
けれどそんな人生って一体何なんだ?誰のための人生を私は歩んでいるのか。自分自身を生きていない、もはや私の真髄は死んでいるも同然?考えすぎてよくわからんかったが突然バカバカしくなった。
そして開き直ることにした。
誰にも見てもらえなくても、好きだと思ってもらえなくても、それでいい。
いや、それは嘘。強がりだ。
本当は私以外の誰かに届けたい。届いてほしいけれど、それがもし叶わなくても、誰かからのいいねがずっとゼロでも、=(イコール)価値がないなんてのはただの幻想に過ぎない。大袈裟すぎるし極端な自爆にも程がある。
だから、いつどんな時だって、私を見ていてくれる存在は傍にいるどころか、もはや私という存在そのものがそれであったのだ。
察しの良い方はお気づきだろうか?
いいねが1つしかない投稿がいくつかあるが、つまりはそういうことだ。
というわけで、ちょっぴりそんな感じで考えられるようになったいま、今後の私は少しだけ強く生きていけるのかもしれない。と、一時的に今は思えているだけかもしれないけれど、そう信じたいのです。