【ミニミニ小説】 聞いてしまった一言
「あーあ。いもむし、踏まれちゃったね。」
小さな男の子が、母親を見上げてそう言った。
左側から不意に聞こえた、大声でも小声でもなく、ほとんど無感情で発せられたその台詞は、私をぞっとさせた。
たった今、自転車で親子の横に停まったばかりだったからだ。
目の前の信号待ちをする、親子と私。
「そうだね。」
と、母親は小さな声で返した。
まるで、私に気を遣っているかのように。
“踏んじゃったあの人のことを責めたらだめよ。”と、息子に諭しているかのように。
嘘だ。間違いであってくれ。
私は必死に頭の中で祈った。
きっと彼は、いつかの話をしているのだろう。
ふと思い出したあの日の話をしたのだろう。
あの時のいもむし、踏まれちゃったね。と。
…いや、そんなわけない。
やっぱりおかしい。
『あーあ。』
がそれを証明している。
こんなセリフは、その瞬間、踏まれた瞬間を目撃した時にしか言わないと言っても過言ではない。
周りには、私以外に人はいなかった。
踏んでしまう可能性があるのは他でもない。
一人だけだ。
それでは、私が踏んだことになるのか?
いや、そんなはずはない!
自転車で停まった際に、足は一歩しかついてない。その一歩で偶然踏んでしまうなんて考えられない。
まだ、まだ希望はある。
彼の台詞にヒントがあるはずだ。
「踏まれちゃったね」
そう。これだ!
『ひかれちゃったね。』ではないだろうか?!
ぱっと見5歳くらいの小さな子どもだ。
踏むと、轢くをうまく言い分けるだろうとは思えない。
小さい子どもの言うことだ。
そうだ。『ひかれちゃった』の間違いだ。
私が足で”踏んじゃった”のではなく、すぐそばの車道にいたいもむしが、不幸にも自動車に”ひかれちゃった”のだ。可哀想に。
それを遠くから男の子は目撃したのだろう。
そうだそうだ。間違いない。
…
しかし、それでは足りない。
私が自転車で”ひいちゃった”という可能性が、まだ捨てきれていないのだ。
駄目だ。下を見る勇気はない。
もし、奴がいたならば、涼しい顔で見過ごせるわけがない。
あの親子の目の前で、慌てふためく姿を見せるなんてことは非常に耐え難い。
今は見てはいけない。確認はできない。
考えるしかないのだ。
ふと、ここまでの道のりで見かけた、いもむしを思い出した。
さっき道の真ん中にいたあのいもむしに、私は気づくことができた。
そう、自転車で通るときには、その道をしっかり見ているはずだ。
だからあの時、轢かずに避けることができたのだろう。
そうだ。今回だって、地面を見ていたはず。
いもむしが近くにいたのなら、気づいていたに違いない。
私はひいてなんかいないのだ。
踏んでも、轢いてもいない。
そう、何事もなかったのだ。
強い意志を持って、しっかりと前を向き直す。
1、2、3…
信号が青に変わった。
私はペダルに足を乗せ、勢いよく靴の裏を祓った。