紫式部日記第82話御前の池に、水鳥どもの日々に多くなり行くを見つつ
(原文)
御前の池に、水鳥どもの日々に多くなり行くを見つつ、「入らせたまはぬさきに雪降らなむ。この御前のありさま、いかにをかしからむ」と思ふに、あからさまにまかでたるほど、二日ばかりありてしも雪は降るものか。見所もなきふるさとの木立ちを見るにも、ものむつかしう思ひ乱れて、年ごろつれづれにながめ明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋に行き交ふ空のけしき、月の影、霜、雪を見て、その時来にけりとばかり思ひ分きつつ、いかにやいかにとばかり、行く末の心細さはやる方なきものから、はかなき物語などにつけて、うち語らふ人、同じ心なるは、あはれに書き交はし、すこしけ遠きたよりどもを尋ねてもいひけるを、ただこれをさまざまにあへしらひ、そぞろごとにつれづれをば慰めつつ、世にあるべき人数とは思はずながら、さしあたりて恥づかし、いみじと思ひ知る方ばかり逃れたりしを、さも残ることなく思ひ知る身の憂さかな。
(舞夢訳)
御前の池に、日毎に水鳥たちがその数を増しているのを見ながら、「中宮様が内裏にお戻りになられる前に、雪が降って欲しい、雪が積もれば、このお屋敷のお庭の雰囲気はどれほど素晴らしくなるだろうか」と思っておりましたが、少し自宅に戻っている時に、二日ほどして思いがけず雪が降るではありませんか。
どうということもない我が家の木立を見るにつけても、私の気持ちはふさぎ乱れて、ここ何年もの間、何と言うこもない日々を暮らしながら、花の色、鳥の声、春秋に渡る空の色、月の光、霜、雪を見ては、それぞれの時季と察するものの、内心思うのは、「今後はどうなってしまうのか」それだけであり、先行きの心細さはどうにもならならないけれど、たいしたことのない物語について、同じような物の考え方をする人で、少々言葉を交わしていた人と、心おきなく手紙を交わし、少々縁遠くなってしまった人には人の助けを借りてでも声をかけましたが、私としては、この物語をひとつの仲立ちとしていろいろなやり取りを繰り返しては、心の寂しさを慰めながら、私などは世間において生きているほどの価値がないと自覚しながらも、とりあえずは恥ずかしいとか辛いとかの想いからは免れて来たというのに、今となってその苦しみを容赦なく思い知ることにになるなど、何という我が身の憂いなのでしょうか。
かなり難解な原文なので、諸解説書の現代語訳も様々である。
要するに、寂しいけれど安定していた宮仕え前の生活と、「源氏物語」が認められ、満道長にスカウトされ、中宮に仕える生活とのギャップ。
(もともと、紫式部は、派手なこと、人前に出ることが好きでなかった)
(女房としての立派な力は持っていたけれど、宮中や女房社会になじむ性格ではなかった)
そのうえ、源氏物語を冊子化する作業の様々な「人的ストレス」が彼女にとって重たかったのではないか、そんな印象を受ける。