リード文には主語がない【まいまい京都のメソッド公開⑤】
盛り込まれるのは、誰の「主観」?
前回の記事で、リード文を書くときの心構えをまとめた。心構えをひとことで言うなら「主観の発露を恐れない」ということ。「主観」と言ったが、これはガイドさんの主観だけではない。まいまいのツアー担当者としての主観も、参加者の主観も、リード文には盛り込まれているのがポイントだ。
まいまいのリード文には共通点がある。それは「主語を伏せる」ということだ。1つのリード文のなかで、ガイドさんになりきって案内するように書くこともあれば、主催者としてガイドさんを紹介することもある。参加者の立場から、ツアーに参加したときの体感を描くこともある。つまり、リード文はガイド、主催者、参加者と視点を変えながら書かれている。
主催者としてガイドさんを紹介する
たとえば、ガイドさんの紹介をしやすくなる。まいまい京都が主催者としてリード文を書けば、ガイドさんの面白さやすごさを堂々と語れるのだ。
仮に、バスマニア研究者のガイドさんが、自分のコースを紹介するリード文を書くとする。そうすると、自分で自分をもちあげるのも照れがあるので、きっと「公共交通アドバイザーのガイドがご案内」など、客観的な情報を提示するにとどまるだろう。
でも、まいまいがガイドさんを紹介するなら違う。
こんなふうに、思い入れたっぷりに書くこともできる。
参加者としてツアーの体感を描く
また、参加者の視点でリード文を書くことで、ツアーを歩いたときの体感を表現することもできるのだ。広告業界でいう、シズル感を生み出せるのだ。
たとえばこんな例がある。東寺の非公開エリアを特別拝観するというコースのリード文より引用してみよう。
ここでは、「息を呑みます」の主語は書かれていない。「僧侶の◯◯さんは、初めて見たとき息を呑んだといいます」なんて、説明風にしてしまうと台無しだ。主語をなくすからこそ、これを読んだ人は自分が息を呑んだ様子を想像できるのである。
主語を削るからこそ、多面的な魅力を伝えられる
じつは、リード文を推敲していくときに、まっさきに削る要素が「主語」だ。主語をなくすことで、臨場感のある表現になる。ガイドさん、まいまい、参加者さんといったそれぞれの立場になってリード文を書くことで、ツアーの魅力を多面的に伝えることができるのである。