紙を黒く塗り続ける人生を体感できる本(『タタール人の砂漠』)
(この記事は独学同好会通信とのクロスポストです。)
私たちの知識は頭の中でネットワークになっています。
しかし、私たちが何かを語る時、ネットワークのままではなく、そこから切り出すことが必要です。
その時切り出されたものは固定され、初めて一つのアウトプットになります。レイアウトが固定され、物語になるのです。
では私たちの人生はなにによってレイアウトが決まるのでしょうか。
様々な考えがありますが、その一つが「死」でしょう。
こんなことを考えたきっかけの本がこちら、『タタール人の砂漠』です。
イタリアのブッツァーティが書いた小説で、ドロンゴという若者がほとんど何も起こらない砦でただただ砂漠の向こうから敵が来るのを待ち続けるそんな小説です。
こちらの小説ですが、『賭博黙示録カイジ』に出てくる利根川のこの言葉をまざまざと表現している本です。
30になろうと40になろうと奴らは言い続ける…
自分の人生の本番はまだ先なんだと…!
「本当のオレ」を使ってないから今はこの程度なんだと…
そう飽きず 言い続け 結局は老い…死ぬっ…!
その間際 いやでも気が付くだろう…
今まで生きてきたすべてが丸ごと「本物」だったことを…!
あるいは、『からくりサーカス』でルシールが死の間際に語るこちらのセリフです。
人生とは...そういうものだよ…
生まれた時、人は白い画用紙と、色とりどりのクレヨンを渡されて、
何でも描いていいよと言われる...
さて何を描こうか..考えているうち...たっぷりあったはずの時間は過ぎてゆく...
(中略)
私はね...ずっと...紙の端を黒く塗っていたよ...ミンシア。
ウサギを描きたかったんだけど...気づいたときには...フフ...
もう、白いところはすべて塗り潰してた......
この黒く塗りつぶされてしまった絵に対して解釈を変更することは可能です。たとえば、これは現代美術であると。
意図したものではないけれど、こういう絵ができたのだと。
ドロンゴもそうした解釈を試みようとします。
解釈による変更は可能です、しかしその絵を描いている間楽しくなかったのであれば、それは少し寂しいことだと思うのです。
(逆に解釈を変更することができるからこそ、今は本当に今しかないと実感することでもあります。それはまたの機会に書きたいですね)
そして、私たちの人生、その時間は有限であり、使った時間とともに私たち人生、そのレイアウトが固定された部分は多くなります。
黒い絵を芸術と呼ぶことは可能です。
しかし、できるなら自分の好きな絵を描きたいものですし、そして私より若い人たちには自分の好きな絵を楽しく描いてほしいとも思います。
そんな想いが独学同好会を始めた理由の一つですし、日記についての本などを書いているのもそうした理由からなのだと改めて感じます。
紙を無為に塗り続けてしまう人生、そんな人生を体感できる一冊。
おすすめです。
▼今回紹介した本
▼独学同好会やってます