忘れるために日記を書く
日記は残すため、覚えておくため、そのために日記を書くと思われている。
もちろんそうだ。覚えておきたいことを日記に残す。でも違った一面も存在する。
それを『会話を哲学する』から考えた。
まず『会話を哲学する』はおもしろい。マンガを実例にして、会話とはなんなのかを掘り下げている。その中でコミュニケーションとは約束事を形成していく営為であるとしている。
たとえば、恋愛マンガなどでは両想いであると行動や態度からお互い理解していても、言葉として「好き」と言ってほしいと登場人物が思う場面が出てくる。
会話を単なる情報の伝達とすれば、すでに相手が自分のことを好きであるという情報は伝わっているわけで、わざわざ言葉にする必要はない。
しかし、言葉にしてほしいという登場人物の気持ちは読者としても分かるものである。
そして会話が単なる情報の伝達だけではなく、お互いの中の約束事を作ることであるならば、「好き」と言葉にすることはお互いの間での約束、責任が生まれることでもある。
だからこそ言葉にしてほしいということなのだと整理できる。
そして、約束事が形成されるのは他者との間だけでなく、自分だけについても当てはまる。
たとえば自分の中の認めたくない感情、あるいは事実を受けいるれうのはなかなかに難しい。酸っぱいブドウではないがそんな経験はあるものだ。
しかし、その矛盾した気持ちを抱え込み続けることは難しい。
その解消法として本書の中で示されるのが失敗を前提としたコミュニケーションだ。
たとえば「意識を失っている人へ話す」「日本語が分からない人へ日本語で伝える」そんな場面をマンガやフィクションの中で見たことはあるはずだ。
自分の中で抱え込みたくない。でも事実を認めたくない。王様の耳はロバの耳ではないが、そんなときに失敗を前提としたコミュニケーションが解消する方法になる。
これはどちらかといえば他者ではなく、自分の中の約束事の塩梅をコントロールしようとしている。
では日記はどうか?
日記も自分とのコミュニケーションの一種だ。
私が日記に何かを書く時には、通常よりも薄いとはいえ、どこか人の目を意識している。それはどこか伝わる可能性を考えている。1
しかし、日記の中にはどこか忘れてもいいや、伝わらなくてもいいと思って書く文章も存在する。そんな文章はどこか情報が抑えられている。
伝わるかもしれない、でも伝わらなくてもいい。忘れてもいいと考えている日記には失敗を前提としたコミュニケーションと重なる部分があるように思う。
もちろん確実に失敗する方法としては「紙に書いてゴミ箱へ投げ捨てる」ことだ。
記憶の失敗を前提とした自分の頭の中の掃除。そういったものも時には必要なのではないか。
日記に書いてもいいし、日記に書いて破り捨てるのもいいだろう。投げ捨てる前提でいらない紙の裏に殴り書いてもいいだろう。
失敗を前提としたコミュニケーション、それは自分とうまく付き合っていく、そんな方法のひとつなのだと思う。
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