『世界は「日記」でできている』1章を公開
以下は『世界は「日記」でできている』の第1章「日記のポイント、あるいは日記は本であることについて」を公開したものです。
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表紙と裏表紙に挟まれた書物は、それが閉じられている状態と、それぞれのページが開かれている状態と、このふたつの状態の「あいだ」にあるのです。
『積読こそが完全な読書術である』(永田希)
日記買う夜空は常に新しく
『すみれそよぐ』(神野紗希)
様々なものが日記となり得ますが、まずはみなさんが想像しやすい文章で書く日記をイメージしながら日記のポイントや効果について考えてみましょう。ポイントや効果は多かれ少なかれ、その他の形式の日記にも共通しています。
日記は誰にも見られない
わたしたちは様々な場面で文章を書きます。
ほとんどの文章は手紙であれ、報告書であれ、Twitterであれ、誰かに読まれる、そんな前提があります。他者の目は自分を律する効果がありますが、逆に自分のありのままをさらすことは難しくなります。
Twitterに自分のプライベート全て公開できる強者はそうそういないでしょう。しかし、日記は誰にも読まれない、そんな性質を持っています。
誰かにこっそり読まれるといったことはあるかもしれませんが、それは置いておきましょう。誰かに見せようとしない、読ませようとしないそんな文章は他にありません。日記はそんな珍しい文章です。
そして、誰にも読まれないからこそ、自分のありのままを書きやすいツールでもあります。自分自身のリミッターを外せるのです。
ありのままを書くことで、自分のありのままの姿が見えてきます。ここに日記の一つのポイントがあります。日記は、ありのままの自分を残しておけるツールなのです。
ありのままの自分の思考、行動、感情を残しておける、そんなツールだからこそ日記には後述するような様々な効果が生まれます。
日記は「本」である
日記はだれにも読まれないと書きました。しかし、たった一人あなたが書いた日記を読める人がいます。
そう、あなたです。
あなたの日記はあなたにしか読めません。ですが、多くの人は日記を書いた後、そのまま書きっぱなしにしています。
日記の楽しさ、その多くは読み返す時に感じられます(もちろん書く時にも感じられますが)。
たとえば、あなたは本をよく読みますか?
本をたくさん読む方なら、読んでいない本がどんどん積まれていき、「積読」と呼ばれる本が出てくるはずです(出てきますよね?)。そして、こうした積読は「楽しみ」ではあれ、「楽しく」はありません。
本が楽しいのはなんといっても読んだ時です。
大雑把な言い方を許してもらえるなら、本は文章の塊です。そして、日記は自分の文章の塊です。つまり日記はあなたが書いた、あなただけの「本」と言えます。あなたが書いた、あなただけの本です。あなたがもし長く日記を書いていれば、たくさんの「積読」があるはずです。
ここでは文章で書く日記を仮定して書いていますが、「はじめに」で書いたように写真などを使った日記も同じです。それはあなただけの「本」となります。そして、これから日記を書くのであれば、あなたはこれから世界で一冊の本を書くことになるのです。
そんな日記を読み返さないのは、とてももったいないと思いませんか?
自分のハイライトを見つける
日記には自分のありのままの感情や行動を書くことができます。しかし、日記にはあなたが過ごした今日の「すべて」の感情や行動は残されていません。自分というフィルターを通して残ったもの、そして、その中で書こうと思ったもの、それが日記に残されます。つまり印象に残ったもの、感情を動かされたものが日記につづられやすくなるのです。
当たり前だと思われるかもしれません。しかし、こうした無意識の内に行われる選別作業が教えてくれるものがあります。
自分が何を大切にしているか、自分が何に注意を払っているか、です。
日記にはすべて残されるわけではありません。だからこそ、その日のハイライトとも言えるものが残ります。しかも、誰か他の人が選んだハイライトではありません。自分自身で選んだものです。
自分にとってのハイライトが日記にはつづられていくことになります。もし日記が残っておらず、わたしたちの日々が日記に切り出されなかった場合、ほとんどのものが忘却という、無限の可能性の中に消えていくことになるでしょう。
では逆にすべてを覚えているとしたらどうでしょう。
J.L. ボルヘスの『伝奇集』には記憶の人フネスという人物が出てきます。その人物はすべてを覚えています。そして、全てを覚えているということは、取捨選択がされないということです。大切な記憶も、取るに足らない記憶も、すべて等しく残るということです。
それをフネスはこう表現します。
わたしの記憶は、ごみ捨て場のようなものです。
わたしたちはすべてを覚えることはできません。日記にすべてを残すこともできません。自分なりの取捨選択がそこにあります。だからこそ、日記は自分のハイライトとなるのです。自分のハイライトが残されること。それは「自分を編む」ことにつながりますが、それは5章でのお話です。
日記によって記憶を彩る
「忘れるとはいっても自分にとって意味のあることは覚えているよ?」という方も多いでしょう。わたしは忘れっぽいので、日記に書いておかないと、どんどん忘れてしまいます。
そんなわたしでも、この前の大みそかならそれなりに細かく思い出せます。しかし、日記があればさらに思い出すことができます。年越しそばはどんな味だったか、紅白歌合戦を見て何を話したか、そんなことが思い出せるのです。
日記によって記憶を再生するときの解像度を上げ、色彩を鮮やかにすることができます。
これは記憶力のいい人でも同様の効果があるはずです。すべてを覚えている人はいません。
日記により日々に色彩をつけることは、自分の過去についての実感も持たせるでしょう。たとえば昔の白黒写真をAIによってカラー写真にするプロジェクトがあります。そのカラー化した写真を見ると、昔の自分とはほとんど関係のなさそうな白黒写真が彩色されるだけで自分と地続きであることを実感できるのです。
また、大みそかのような大きなイベントは覚えていたとしても、日々の細かい、本当に小さいイベントを忘れていることもあるでしょう。
そうしたイベントは翌日になればほとんど忘れてしまいます。だからこそ日記に残しておきたいところです。そうしなければ、ほんの小さな忘れてしまうような、でもわたしたちの日常を形成していたはずの出来事が忘却の彼方へ消えていきます。
昨日何をしていたか、その日のハイライトは何だったのか、それは頭の中にあっても思い出すことができなくなっていきます。
そんな事実を表すこんなセリフがあります。
「思い出は全部記憶しているけどね 、記憶は全部は思い出せないんだ 」
『すべてがFになる』(森博嗣)
思い出は全部自分の頭の中にあります。ただ思い出すために日記が必要になるのです。
日記がきっかけになり、記憶が引き出されます。それは自分でただ思い出すよりも、色彩に満ちているはずです。
共感と発見による楽しさ
日記を読み返すことで記憶が引き出されます。
日記を読み返す、それはとても楽しいことだとわたしは考えています。では、なぜ楽しいのか。それは「共感」と「発見」が日記からもたらされるからです。
日記には自分のことが書いてあります。日記は自分が主人公の本です。
そこに書いてあることは、自分にとって共感できることです。つまり、ものすごく当然のことを言うようですが、自分にとって「わかる!」「そうだよね!」「ある!そういうことあるわー!」ということがたくさん書いてあるのです。
それは趣味や出身地が同じ人と話すときの感情と似ています。自分の日記を読めば共感することしきりでしょう。過去の自分とうなずきあう瞬間、それが日記の楽しさの一つです。
もう一つの楽しさが発見です。
ここまで何度か同様のことを話していますが、わたしたちは忘れます。しかし、日記を読み返すことで忘れたことを思い出すことができます。忘れていたことを思い出したとき、ひとは快感を覚えます。出てこなかった芸能人の名前を思い出せると、かなり気持ちの良いものです。
そして、わたしたちはずっと同じではいられません。身体的にも精神的にも少しずつ変わっていきます。それは通常では気づかないような変化です。昔のクイズ番組にはほんの少しずつ変わっていく画像の一部分を当てる問題がありました。
たとえば写っている被写体のなかの一つの大きさが変わったり、色が変わっていたりするのです。元の画像と変化後の二枚を見比べれば一目瞭然なのですが、一枚の画像だけではほんの少しの変化になかなか気づけません。しかし、変化が分かるととても気持ちが良いものです。
自分に当てはめても同じです。自分という画像の一部がほんの少しずつ変わっていく。それにわたしたちはなかなか気づきません。しかし、日記は過去の自分というもう一枚の画像です。日記を読み返すことで自分自身が変わったことに気づきます。
それは自分の変化を発見した瞬間です。その発見は気持ちよくも楽しいものとなるでしょう。
理解するのではなく実感する
「百聞は一見に如かず」といいますが、聞くことと見ることの間にある違いと同様に、知ることと理解することの間にも大きな差がありますし、理解することと実感することの間にも大きな差があると考えています。
たとえばこの本を読んで、「ふむふむ、日記って楽しいんだな」と理解することと、自分で日記を書き、読み返して「日記って楽しいな」と実感すること、そこには似ているようで大きな差があるのです。
わたしたちが言葉を発するとき、自分が考えていることを丸ごとすべて表現し、伝えることはできません。なにかしらこぼれ落ち、表現できないもの、伝わらないものが出てきます。それはどんなに表現力がある人でも変わりません。
実感するとは、自分自身でつかむことです。
あなたが日記を書き、自分自身でつかんだ実感は、あなただけの「楽しさ」となるでしょう。それは言葉では表現できないような、わずかな違いしかないかもしれませんが、あなたがつかみ、自分自身に刻みこんだものです。
たとえわたしがとてつもない表現力をいつの間にか授かり、日記の楽しさを余すところなくこの本の中で表現したとしても、それはわたしにとっての「楽しさ」であり、あなたが日記を書いたときの「楽しさ」とは違うのです。
しかし、あなた自身が書いたことをあなた自身に伝えるのであれば、実感とともに伝えることができるはずです。日記は実感を未来の自分に伝えるツールでもあります。
わたしたちは日々過ごしていく中で、様々な経験をします。それはわたしたちに刻み付けられた印、傷、勲章など、様々な言い方があるでしょう。日記にはそんな傷や勲章がスケッチされていきます。
スケッチをすることで、初めて気づくことがあります。たとえば、今この本をスマホで読んでいるでしょうか。そのスマホをスケッチしようとしてみてください。今まで気づかなかった傷や特徴に気づくはずです。
そんな傷、特徴に気づくことで、あなたは自分のスマホが自分だけの唯一無二のものであると実感できるはずです。
そして、日記を書くということは、自分自身を繰り返しスケッチし、実感することにつながります。頭の中で理解していると思っていた自分だけでなく、自分が気づいていなかった自分自身も「実感」することができるのです。
実感すること、実感をリレーすること、これは日記の効能の根本とも言えるでしょう。
日記で余白を作る
日記によってわたしたちは自分自身の日々、経験を実感することができます。
しかし、わたしたちの日々は楽しいことばかりではありません。つらい経験や受け止めきれない体験が突然やってきます。そうした経験はまず日記に書いてみましょう。言葉にすることで、それは一度自分の中から外に出ます。そこで少し落ち着くことができるでしょう。
さらに書くことで思考が減速します。たとえば同じ内容でも音声にして話すのにかかる時間と、キーボードで打つのにかかる時間には大きな差があります。そして思考にかかる時間は音声よりももっと短いはずです。
つらい経験で落ち込んでいるとき、壊れたカセットテープあるいはGIF画像のように思考が繰り返されます。あるいは受け止めきれない体験については考えるのも難しくなっているでしょう。
しかし書くことによって、思考のスピードは書くスピードに引っ張られます。それが思考の減速です。思考が減速することで、思考がエンドレスリピートになっていることに気づくかもしれません。思考が減速することで落ち着くこともできるでしょう。落ち着いて考えることで、受け止めきれない体験を消化するヒントが得られるかもしれません。
そしてなによりつらい経験をその日に消化しきる必要もないのです。期間をあけてもう一度読み返すことで、体験を消化できることもあります。つらいと思っていた経験が実は大したことがないと気づいたり、読み返した時にはまったく覚えていなかったりすることはしょっちゅうです。
消化できなかったものは、牛のように時間をかけて消化すればいいのです。日記はその手助けをしてくれるでしょう。
そして、消化できたものは血肉となり、いらないものは排出され、忘れられていきます。自然の摂理ですね。
わたしたちは日々多くのことを忘れます。日記は自分のハイライトを見つけ、日々を彩ると書きました。そうしたハイライトをより目立たせるのは忘れるという現象です。
忘れることによって、余白ができます。余白にはどこか切なさがあります。人のいないベンチ、夕方の誰もいない公園。画面いっぱいに描いてある絵ももちろんいいですが、余白によって大切なものを目立たせることも大事です。
書道や日本画の余白は、それ自体が重要な要素です。しかし、日本画の余白は実際に観ることができますが、忘れることによってできる余白は観ることはできません。しかし、日記はわたしたちが忘れているということを実感させてくれます。
それはわたしたち自身が持っている余白を改めて気づかせます。少し切ないことかもしれませんが、その切なさが覚えているものをより魅力的にするとも言えるでしょう。
日記は編集できる
日記に書くものと書かないものがあるという事実は日記を本と考える場合、編集的な行為でもあります。本も編集されるように、日記も編集されるのです。一日の中のどこに注目するのかというのは一日を「編集」する行為です。
さらに書いたものについて編集することもできます。その編集を可能にするのは頭の中にとどめるのではなく外に書くというプロセスです。日記の文字は簡単に消せますが、頭の中の思い出は消したいものを自由に消せるわけではありません。
思い出は日記がなくても再生できます。しかし、思い出は再生できても、日記のように読むことはできません。そこには差がないように見えますが、実は違いがあります。
それは、解釈の余地です。たとえば本を読んでいるとき、文章に違和感を持つことはないでしょうか。納得できなかったり、意味があまり理解できなかったりすることもあります。
そんな時、わたしたちは試行錯誤して文章を解釈しようとします。そして、それは日記においても起こります。頭の中の思い出に対して解釈を試みるのはかなりハードルの高いことです。頭の中だけで暗算し、結果を検算するようなものでしょう。しかし、本や写真などわたしたちの外部にあるものであれば、解釈は比較的容易になります。難しい証明問題も紙に書けば解きやすいのです。過去を再解釈できるようになれば、自分の過去に対する納得へとつながります。
また、編集という言葉をさらに広く考えると、現実とニュアンスを変えることも可能となります。
平たく言えば、嘘も書けるのです。
最初に日記は「自分の感情、思考、行動が残されているもの」と書きました。本当のことかどうかは定義には含まれていません。嘘も思考の一種です。
そもそも日記には本当のことばかりが書かれているものでしょうか? 最初の仮名日記とされる『土左日記』は最初から嘘があります。女性が書いた体裁ですが、その実は男性である紀貫之が書いたものです。
また、漫画『違国日記』では本当のことを書かなくてもいいと言い切ります。
日記は今書きたいことを書けばいい
書きたくないことは書かなくていい
本当のことを書く必要もない
『違国日記』(ヤマシタトモコ)
初めからフィクションを書こうと思う必要はありませんが、無理に悪いことを書き残す必要もないのです。
自分の本だと考えれば、自分に編集権があります。自分に受け止めきれないことは、書かずに忘れるという選択肢もあるのです。
自分を騙ること。だますこと。
すべての経験を受け止め血肉にするべきだとはわたしは思いません。もちろん、すべて血肉できればいいでしょう。しかし、受け止めた衝撃で、体を痛めることもあるかもしれません。
たとえば早起きするライフハックの一つに、「水を飲んだら寝ていい」と自分をだまして布団から出るハックがあります。それは自分をだまして、自分のやりたいことをする方法です。日記が編集できることは、それと似ています。過去に対して広い解釈が持てることで思考がすこし自由になるのです。
日記は形式じみた硬いものと考えられがちですが、実はもっと柔軟で融通が利くものです。編集をうまく使いながら、日記と付き合っていきましょう。それは自分とうまく付き合う方法でもあるはずです。
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