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洞窟のシダが教えてくれたこと
私は大変変わった家に住んでいる。
私の寝室は地下にあり、そこは洞窟につながっている。
風を入れるため、地上にまあまあの大きさのガラスのふたが付いた通気口があり、天気のいい日は太陽が入り、一部さながらサンルームのようになる。その奥は暗闇なので若干薄気味悪いが。
洞窟の壁はおそらくサンゴの堆積物であろう。ごつごつした岩のような様相だ。
あれは3年ほど前だっただろうか?
どこからともなく通気口を通り、風に乗って運ばれてきたのか?
無機質な岩肌に、植物が芽を出しているのを見つけた。
シダだった。
砂漠に生えたたった一本の草のように。
私には光輝いてみえた。
ああ、なんと美しい。
もっと増えたらいいのにな…
そうしたら殺風景な洞窟がもっと感じ良くなるのにな…
そんな望みを胸に
それをそのままにしたのだった。
その思いを受けたか?
しばらく私が気を留めずにいた間に、シダは爆発的に増えた。
気が付いたら、そこはジャングルの密林のようになっていた。
枯れて垂れ下がったものの上に、ギラギラとした新たな新芽が覆いかぶさるように生え、ついには、入っていくのも憚られるほどになってしまった。
植物の存在は水を呼ぶ。(これも一つの学びだったが) そこから水蒸気が上がり、洞窟の湿度は飽和状態で、ガラスの空気孔は水滴が滴っていた。
枯れて散った葉はコンクリートの床を真っ黒にしていた。
そしてやっと昨日、私は重い腰を上げて、シダを除去することにした。
得も言われぬ重労働だったが、この事象は私に多くのことを教えてくれたので、こうして今書き記している。
シダを引き抜きながら、まず、この一連の事象が、恋愛やお金が及ぼす状況に似ていると思った。
恋愛を例にするなら、
心震わせる人に出会った喜びを皮切りに、もっとこの喜びが増えたらいいと願う。
しばらくの時間が経ち、気づかぬうちに、その人を想う時間や心を占める割合は爆発的に膨れ上がり、対処できないほどになっていて、自分を窒息状態のようにしてしまう。
私のシダと全く同じだ(笑)。
ついにはその刈り取りに恐ろしいほどの時間と苦しみを生み出す結果となる。
その間にも多くの学びがあるのだが…
今ここは冬の沖縄。
だからこそできる作業だ。そうでなければ死んでいる。
根と茎に生えるヒゲと胞子にまみれ格闘しながら、こう思った。
あの時私はシダが増えたらいいという欲望を抱いた。
そしてその欲望が育っていく間、注意を払わなかったことがいけなかったんだ。
小さな欲望が、気づけば執着となっている。
日々の雑事に飲まれてしまっていて、その欲望を随時観察し、私の中で今これ程になっているのかと、冷静に俯瞰することができなかった。
できていたら、随時間引くなどしていたはずだ…
その時通気口から得も言われぬ心地よい風が入ってきて、私を撫でた。
風は瞬時に私を慰め、労わる。
ただただ、心地よく、ありがたい…だがその時には、この風をもっと吹かせようなどとは思わなかったのだ。
当たり前のことだが、私たちに自然の風をコントロールすることなどできない。
これだ!と思った。
日々訪れる喜びにも悲しみにも、風のように受け止めること。
喜びが訪れれば、ああ有難い
悲しみが訪れれば、ああ悲しい
どちらも通り過ぎていくものであり、ただそれをその時受けとるのであり、そこにもっと増やしたい、避けたいなどという能動性を含ませないことだ。
これは仏教的に言えば他力ということなのかもしれない。
半日かかって、シダを抜き、地下からいくつかのごみ袋をあげ、日が落ちる頃には私は倒れこんで動けなかった。しかし、心の中は風が吹き抜け、光が差し込み、洞窟のごとく、澱みはすっかり消えていた。