適材適所
「適材適所」と言う言葉がある。
人を、その才能に適した地位・任務につけること。(広辞苑)
ちょっと私が言いたいこととは違う気がするけど、このキーワードは人が幸せに生きていくためにとても大事なことだと思う。
好き、嫌いと言うよりも、その人自身が感覚的に快適にしていられるか、みたいな。取り巻く環境も含め。
私はあれ以来すっかり社交性がなくなり、すぐ内向的になり、周りと関わろうともしなくなってしまった。その影響もあるかもしれないけど、過去、これは天職だと思った仕事もある。それが、その時の私がいるべき場所と自分で決めていたし、頑張れた。頑張ると言うか、自然と良くなるようにと努力もできた。
今はどうだろう。
皆はどうなんだろう。
居心地が悪い、馴染めない、いつまでたっても慣れない、など今いる環境に違和感を感じることはないだろうか。私は感じる。それは環境が悪い訳ではない。だから、こんな内向的にしか考えられず、人と話すことが苦手になってしまった自分のせいだと思っていた。そして、そんな自分を責めて、不甲斐ないと思い、そういう人間なんだと、そこに居る自分が私の全部なんだとすら思った。
果たしてそうなのだろうか。
お家で幸せだと穏やかに笑える私も、過去、天職だと自然に笑顔で仕事をしていた私も、勿論馴染めない場所にいる私も、それが私なんじゃないかとふと思った。視野が狭くなってた。
想像してみた。
自分の子が、もし学校では馴染めなくて下を向いていたとして、外のクラブチームでは生き生きしているとか、お家では笑顔で笑っているとか、違う顔を持っていても全部その子なんだって思った。それは事実なだけで、全部が全部うまくはまらなくても類は友を呼ぶから、それだけで助けられて、その友達といるときは穏やかでいられるとか、そういうのを大事にしていけたらいいんじゃないかなって。
それを自分に当てはめたら、居心地が悪い場所にいる罪悪感を抱えた「私」だけが私ではないと思えた。誰でも自分の居場所がない、そう思うこともよくあるだろう。それは、自分で見つけるしかないし、ないならつくるしかない。簡単にはつくれないし、方法もわからないかもしれないけど、それは人生をかけて作ってけばいいのかもしれない。そのどこかで、ここだって場所があったらそれを大事にしてけばいいんだと思う。
だから、これは自分に対しても言ってるんだけど、
今ある環境が思わしくなくても、自分だけを責めたりしないで欲しい。
あなたが、私が、居るべき場所は、居たい場所は他にあるのかもしれない。
そう思うとちょっとニュアンスが違うかもしれないけど、そういうことで心を痛めている人を見ると「適材適所」だよと言いたくなる。