【スリービルボード】世界は球体だから、良い・悪いで片付けられないことがある
東京コメディストア:Dメンバー、依田ちゃん絶賛の映画を観てきました。
「スリービルボード」
最近、「良い」「悪い」を頭で考えるより、自分の目の前にあることをやった方がいいなと思っています。
時間って有限だなと、つくづく感じているので。
そして、世界は・物事は球体だと思っているので、なんだって角度次第。
わたしにとっての正義はあなたにとっての悪。
あなたの好きなものはわたしの嫌いなもの。
それってもうどうしようもないから。
批判したり反発するよりも、その角度からみると世界はどうなんだろうと考えてみたり
こっちの角度からみるとこうなんだよって伝える表現の方法を磨くとか
真逆なら自分の方向をとにかく向いてみるとか、そういう方がいいなって。
だってそれにうだうだ言ったってどうにもならないじゃないですか。
考えて言葉を放つだけじゃ、どうしようもないじゃないですか。
そしてわたし、「どうしようもない」人とか、感情とか、物事って、めちゃくちゃ強いと思っています。
「どうしようもない」から、心が囚われるんだと思います。
辞典によると【どうしようもない】とは、
①そうなるよりほかに方法がない。他に方策のとりようもない。 「もうこうなったら-・い」
②救いがたい。 「 - ・いやつだ」
こういうことらしいんですけど。
もうそれって、結構最後の感覚じゃないですか。
打つ手なしだなって、少し観念しているところがある。
だからどう扱っていいかわからない。
極限までいっちゃってるから、頭でコントロールできることじゃないんですよね。
それって強いじゃないですか。
どうしようもなくあの人が好きだとか、
どうしようもなくこの風景を目に焼き付けたいだとか、
どうしようもなく絵が描きたいとか、
どうしようもなく餃子が食べたいとか。
この感覚って、自分でコントロールが出来たら世話ないし
それが出来るなら映画なんて生まれない。
この映画には、登場人物の「どうしようもない」が詰まっています。
みんながみんな、「どうしようもない」何かを持っています。
それをどこかで共感出来るから、こんなに惹きつけられるんだと思います。
その「どうしようもない」ことに対して必ずアクションを起こしていく登場人物たちだから、好きになってしまうんだと思います。
わたしはわたしの中の「どうしようもない」に何かアクションしたかな。
それがどんな形でも、なにかしたかな。
そんなことを思いました。
何かしないと、永遠にそこから動けない。
でも、何かしたって動けるとは限らない。
それでも何かしないより、ずっといい。
何かした先は、何かしたやつにしか見えない。
小学生の時、お昼寝をして夕方に目が覚めたらタオルケットがかかっていて
見回すと誰もいなくて、まるで世界にひとりぼっちになったような気持ちになったことが何度かあります。
大人になってからもね。
そういう、言葉ではうまく言えないけど、自分の中に深く残っている何かがある映画。
言葉よりも果てがない感覚がある映画。
あと、この映画に散りばめられたユーモアも好きです。
あのユーモアがあるからこそ、この内容で集中力が切れず、飽きず、好きだなぁと思って興奮を提げながら映画館を後に出来た。
「こうでなくちゃいけない」「こういうテイストはこう」というものに縛られていない、自由を感じる映画でした。
わたしは即興の芝居もしているので、こういう感覚を持ってシーンを作りたいなと思いました。
はぁ。ラストも良かったなぁ。