Xをやめます
自分は少しでも感情が昂ると、すぐさまXにあれやこれやと反射的に書き込んでしまう悪い癖がある。
自分の衝動性へのコントロールが出来ないことを自覚こそしていたが、いつになっても自分の行動を変えることはできなかった。
しかも私の発言は往々にして冗長、そのくせ言葉足らずで的を得ない。
ネガティブな内容が大半で、特定の人や物事に対して攻撃的になることも多い。
「誤解される」どころの話ではない。
話は逸れるが、そもそも誤解「される」っていう言い回しに違和感を覚える。
例外はあれど、基本的に誤解「される」ような文章を書く自分が悪いと思う。
「される」は、まるで自分が被害者であるかのような印象を私は受けてしまうのだ。単に自分に「意図した通りに伝える」能力が無いだけなのに…
◼︎ 言葉はワレモノ
「葉」って漢字が充てがわれているくらいだから、言葉っていうのはすごく繊細なものだと思う。
少しでも粗雑に扱おうものなら、全くそのつもりがなくたって不意に誰かを殺してしまうことだってある。
ポロッと呟いた一言があっという間に宙を浮いて、自分のもとを離れて遠くへ飛んでいってしまったりする。
Xで往々にして見られる炎上騒ぎなんか、その最たる例だと思う。
Xに慣れていると尚更忘れがちだけど、言葉って本来、割れ物を運ぶ時のように慎重に扱わなければいけない繊細なもの。
投げたりしようものなら、いとも簡単に割れてしまう。
だからこそ、勢いに任せて言葉を投げっぱなしにすることは無責任に思えてならない。
それに関連する話だが、私も2018年にnoteを書き始め、読んでくれた人たちの反応を肌で感じるようになってから、言葉を発することに責任感と緊張感を覚えるようになった。
そこから言葉を吟味することを意識しはじめ、推敲をするという行為を少しずつ習慣化するようになった。
推敲には、ある程度の時間をかけることは勿論、メタ認知的な視点も必要だったりする。
だけど当然ながら、Xに衝動的に書き込む行為で、それを成せるとは到底思えない。
だから後先考えず書き殴ったあと酷く後悔したり、自分をコントロールできないことに落ち込んだり、罪悪感に駆られることが長年常だったのだ。
自分で撒いた種のくせに…
そのうち自分の発した言葉のゆくえを案じる日々があまりにもナンセンスに思えて仕方なくなった。
自分にXは向いてないというか、もはややるべきではないなと感じつつ、自分の活動を周知するメインのプラットフォームとして長年使っていて、さらには他のどのSNSよりフォロワーが多いというサンクコストに後ろ髪を引かれ、なかなかエイっとやめる踏ん切りがつかなかったのだ。
しかし今年の初夏に発病し、そこから休養することになったことを機に、少しずつ考えが変わっていった。
考えごとをする時間が必然的に増えたことで、それまで日々に忙殺され停止していた思考がゆっくりと巡りだした。それまでよりも踏み込んだ考えに及ぶようになった。
◼︎ 私にXは必要ない
結論から言うと、やはり自分にXは必要ないことを今度こそ確信したということ。
さきほど述べた、せっかく得られたフォロワーの数を気にしてしまいなかなか辞められない、という話も、よくよく考えてみたら表面的な数字に惑わされていただけだったことが分かった。
数字ばかりに気を取られるのではなく、自分に合った場所を選ぶことも、自分の見せ方においては大切なのだ。
繰り返しになるが私の場合、言いたいことがあればよく吟味して、最大限意図した通りに発信したいと考える。
その場合、心理的ハードルの低さから良くも悪くも気軽に手が伸びてしまうXよりも、noteなどのテキストに特化したサービスが適切なのだ。
(ちなみに私はカクヨムというweb小説投稿サービスも利用している)
また、活動のプロモーションに関しても、なにもXばかりを使う必要はない。
ありがたいことに日頃から自分に関心を持ってくれる方々は、SNSのタイプに関わらず常時ウォッチしてくれることがここのところ身をもって分かったからだ。本当に、ありがたいに尽きる。
◼︎ 自分に合う場所を選ぶ
SNSに限定するならば、いまのところInstagramが最も自分に合っているなと感じる。
サービスの特徴として、Xがタイムライン機能による流動的な使い方が主であるのに対し、Instagramには一定の一覧性があることが挙げられる。それが自分の活動内容とよくマッチしている実感がある。
自分はデザイン、写真、音楽、執筆、といった具合に、肩書き不明なほどあらゆるジャンルで表現活動を行っている。
それらを網羅して発信するには、ポートフォリオのような一覧性が必要だ。
Instagramを使い慣れている方ならお分かりだと思うが、画像を投稿欄に並列して展開できるから活動履歴が一目で分かりやすいし、後からキャプションに加筆できる機能も重宝している。
さらに「ストーリーズハイライト」という機能を使えば本来24時間で消えてしまう過去のストーリーズを呼び起こして、アーカイブ表示することもできる。
これは、ストーリーズでタイムリーかつランダムにプロモーションする自分にとっては、大変ありがたい機能なのである。
そもそも画像・動画投稿がInstagramのコア機能なので、グラフィックや映像、写真等のビジュアルコンテンツを主に扱う自分とは親和性が高いことは言うまでもない。
つまり、Xよりも余程自分の活動の趣旨を明瞭に発信できるということ。
そんな感じで、Instagramでやりたいことは充分達成できるので、益々Xの必要性は感じなくなったというわけだ。
◼︎ 自然に身を任せる
直近半年、自分の中で強く浮かび上がった思考のひとつとして、自然に身を任せるというものがある。
自分の場合Xでフォロワーが増えていくにつれて見栄や承認欲求に支配されるようになった。
膨れ上がった自己顕示欲を満たすためにありとあらゆる手段で訴えかけ、それは時に強引なアプローチだったり誇張した表現であることも多々あったと思う。
そんな作為的な状況は、本来性格的に引っ込み思案な私にとってはあまりにも不健全だった。簡単に言えば、だいぶ無理してたというわけだ。
この半年間体の自由が利かず、置かれた状況にありのまま身を委ねざるを得なかった自分は、限りなく自然に近い状態だったと言える。
それにより、自然の摂理には抗えないことを強く実感したのだ。それは"作為"にとらわてきれた自分には、ものすごく大きな発見だった。
自然に身を任せる、というのは、SNSでの振る舞いにあたっても言えることで、今となってはフォロワーに関しても、自分の理解者となってくれる人が数人いてくれたら私はそれで充分幸せだと思えるようになった。
例えるなら、気の向かない大勢の飲み会に嫌々参加するより、決して友達の数は多くなくとも、自分のことを気にかけてくれる友達とは一生仲良くしたい。そんな数少ない彼らを大切にしたい。私は本来そういうタイプなのだ。
そうではない、イマイチ相容れない人たちに無理に友達になろうよ!私を見つけて!と呼びかけたいとは思わない。
だからこれからはInstagramで繋がれた人とのご縁を大切にすれば良いし、折角Xで増えたフォロワーがいなくなっちゃう…なんて気を揉む必要はない。
言い方は悪いかもしれないが、私がXをやめることで繋がりが絶たれ一生会えなくなってしまった人がいたとするなら、残念だけど私たちはそこまでのご縁だったということ。
かと思いきや、もしどこかでバッタリ再会できたならそれはまた嬉しいことで、やっぱりご縁があったようですね、ということになる。
つまるところ、他者と無理矢理に繋がろうとするのではなく、自然に身を任せるままに、恵まれたご縁を大切にしたいと思う。
◼︎ どうしても言いたかったこと
冒頭で述べた、"言葉足らずで誤解を招く"だけなら自分の内なる問題なのでまだ良い。私が嫌われるだけなら全然構わない。
私が一番避けるべきは、自分の言葉によって誰かの心身にダメージを与えること。
それは誰かの意見に反論することとは違う。反論と攻撃は別物だ。私とてこの荒んだ社会に物申したいことはいくらでもあるし、"反論"なら今後も続けていくつもりである。
先述の通り、私は攻撃し続けてきてしまったのだ。X上で感情を振り回すという愚行を長年やめられなかった。
今考えれば幼少期の体験を軸にして歪んだ認知のせいではあったのだが、無論そんなこと相手にとっては関係ない。言い訳にも免罪符にもならない。
どんな事情があれど、自分で自分を制御できない以上、そもそもXやる資格なんてないのだ。
さきほど、サービスとの親和性がどうだとかフォロワー数がなんだとか如何にもそれらしいことを書き連ねたものの、それらはあくまで二次的な話に過ぎない。
なによりこれは私なりの過去に対する反省と、せめてもの責任を取りたいという意思表示でもある。
言葉は取り消せず、もう手遅れであることは重々承知のうえで、いままで私の言葉で傷つけてしまった方々にはこの場を借りて深くお詫びしたい。
◼︎ さいごに
アカウント開設からの13年間、お世話になった皆様、応援してくれた皆様、本当にありがとうございました。
なにも、今まで作られてきたつながりをここですべて断ちたいわけでは全くありません。
言わずもがな、SNSなんて、ひとつのツールでしかないのです。SNSで繋がるとか繋がらないとか、そんなことで人間関係の良し悪しをはかれるものではないと思います。
先ほども書きましたが、SNSなんか関係なく、またどこかで会えたらと思っているのです。
とかく、今までのすべてのご縁に感謝しています。
もし自分に興味を持ってくださる方がいらしたら、ぜひ私のInstagramにお越しください。
個人的な事情にはなりますが、先述の通り今は療養中で体調にも波があるため、当分のあいだは非アクティブ状態がほとんどだと思われます。
ですが、できる範囲で、それこそ自然に身を任せて、なにかしら発信することがあればまた必ず現れます。
つい半年前まで、まさか自分が身体的にこんな状況になるとは夢にも思っていませんでした。
最初はもどかしく、やるせなく感じていたけれど、自分でどうこうできる話ではないので自然に身を委ねるほかないと気付いてからは、いま与えられた環境のなかで、できることをできる範囲でやっていけばいいのだと心の底から自然に思えるようになりました。
そんな気づきを得て少し気が楽になったので、病気をしたことは私にとってすべてがマイナスではなかったとも言えるのです(だから、心配しないでください)。
勿論、生きている限りは表現活動を継続していきたいと思っています。
その形はその時々で変容していくものだと思うけど、それも自然に任せるままに。
とくにこれからは、言葉と向き合って文章を書くという活動をより深めていきたいと思っています。そしてたとえ1人でも、それを受け取ってくれる人がいたら生きる励みになります。
またいずれ、あなたに再会できる日を楽しみにしています。
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