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「恵まれている居心地の悪さ」の描写

魯迅の「故郷」は高校の国語の教科書に載ってたんだっけ、と思って調べたら、中3のすべての教科書に入っているとわかった。
あのテーマを中学生に読ませるってすごいな。

「小さいころに遊んだ子と大人になってから再会して、身分の差を痛感する描写」みたいに授業で解説されたことははっきり覚えているけど、当時は単に授業の内容として聞いただけで、思い当たる記憶も特になく、感想らしい感想を抱かなかった。

私がそういうテーマを扱う作品を見て思うところが出てくるようになったのは、たぶん社会人になってからだ。最初にはっきり意識したのは、西加奈子さんの小説「サラバ!」を読んだとき。

サラバ!の主人公は商社マンの父の仕事の都合で、イランやエジプトで幼少期を過ごす。エジプトで現地の少年と仲良くなるが、彼は主人公が住んでいるエリアから少し離れた場所に住んでいる。
ある日、主人公は家族で何度か行ったことのある富裕層向け高級ホテルの裏口で、少年がクリーニング会社の車から洗濯物を降ろしているところを目撃する。その少年がこちらに気づきそうになった時につい目を逸らしてしまい、それを後悔する。
他にも、外国人の子どもたちを珍しがる現地の子どもたちが下校時に群がってくるのを思いきりかわせず、卑屈に笑いながらやり過ごそうとして、それを見透かすような目で見ているある現地の子どもの表情に気づき、自己嫌悪に陥る描写がある。

「君たちはどう生きるか」でも、似た印象を受けるシーンはあった。
昭和初期ごろの作品で、主人公はお手伝いさんがいるような、当時家にラジオが置いてあるような家庭の子ども。豆腐屋さんの息子で、いじめっ子から目を付けられている同級生のことを気にしている。その子が学校を休んだことを心配して家に行くと、田舎にお金を工面しに行った父親の留守中、奉公に来ている若者が風邪をひいてしまったので、代わりに油揚げづくりをしている姿を目にする。
自分の家よりも狭くて古い家の1階、通りに面した店の奥で大人のように働く同級生を見て感銘を受けた話を叔父にすると、その叔父は、世の中には貧富の差があること、恵まれている者はその人たちの分も勉学に励んで、世の中をよくすることに貢献する義務があるんだ、みたいなことを主人公に伝える。
でもこの本を初めて読んだころは、この部分を一番印象深く思いつつも、まだピンとくるものがなかった。

上京したからなのか、働き始めたからなのかわからないけど、そういう描写で「あ~~~」と思うようになったのは、やっぱり社会人になってからだ。


社会人になって、仕事でたくさん「医学部受験をする、お金持ちの家の子っぽい子」に会ったときや、六本木や西麻布、恵比須、代官山のような洗練された街を歩く身ぎれいな人たちの様子を見たときに、うまく言葉にならないけど、なにか新しい気持ちをはっきり抱いた。
そして、初めて「私立出身の人」「付属校出身の人」に会ったときや「祖父母がお金持ち」というフレーズを聞いたとき、「あの子の家はすごく大きいらしい」という話を聞いたときの何かがひっかかった感じを思い出すようになった。


私の実家は、地方の新興住宅地的なエリアで何度か家を買い換えはしているが、普段の生活ではめったに贅沢せず、外食や旅行などは少ない方だったと思う。
高校に進学したとき、部活で自分の楽器を買ってもらう子がかなり多いことには驚いたし(たぶん10~50万円くらいかかる)、3人姉妹で、進学するなら家から通える学費の安いところにしないとな、と思っていた。
大学の学費は自分で払う決まり?だったので、繰り上げ返済を頑張っている最中だ。それが普通だと思っていたので、そうせずにすむおうちもあるんだ、すごいなあ、くらいの感覚だった。
お金のことでそこまで困ったことはないが、余裕があるわけでもないことをなんとなく感じながら育った。


小学生のころ、初めて世界には貧困という問題があると知ったときは、貧困は日本の外にあって、日本という国自体は恵まれていると認識した。
日本に生まれた私は恵まれている、私は世の中に恩返しをしなきゃいけない立場なんだ、と強烈に思った。

中学生になってからは、自分の家庭にはそんなに大きな問題がないことを知った。家にいるのが苦痛だと、他のあらゆることに影響することがぼんやりとわかって、自分は家庭にも恵まれたんだなと思うようになった。ますます私は世の中に恩返しをしなきゃいけないと思った。


でも、私は社会人になって、初めて自分より恵まれている人の存在をはっきり認識した。社会階層は上にももっと広いということが、具体的な映像を伴って想像できるようになった。

「自分の育った世界にはなかったものを目にするタイミング」はいろんな要因で前後するだろうから、人によってその感覚を得る時期も違うだろう。
私は社会人になってからだったけど、もっと早い人もいるはずだ。
そう考えると、義務教育の最後の年の教科書に「故郷」が載っているというのは、なんかすごい深い意味があるように感じる。


上に書いた三つの作品は、どれも「自分より恵まれていない側」を初めて認識した出来事を描いている。
私はその一種の気まずさみたいな感情を、自分が「恵まれている側」だと思った小学校時代から知っていたはずだけど、その描写でリアルに気持ちがざわざわするようになったのが「恵まれていない側」の気持ちを知ってからというのは、なんか不思議だなと思う。(不思議でも何でもない。自分が体験するまで、相手の気持ちを想像できなかったからでしかない。2024年追記)



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自分が世の中で生きぬいていくために主体的に行動しないといけなくなる、というのが「社会に出る」ということだと思う。
社会に出るまで、私は社会問題を「恵まれている側」から考えて、自分は貢献すべき立場として頑張らねば、みたいに思っていた。

大学の途中からうすうす気づき始めて絶望してたけど、社会に出てからは、自分を生かしていくこと、身を守ることで精一杯だ。
今も困窮することもなく、ある程度恵まれているとは思うが、それで自分を満たしているだけで、社会への恩返しになることなんてできていない。
理想とは反対に、世の中giveしたら搾取される、損してはいけないと身構えている。
自分も社会の構造の中で、よくないと思っていたことを結果的に助長する当事者になっているように感じることもある。

社会に参加する前、あれこれ想像していたころに感じた、何を考えても自分の生活と結びつかない虚しさはなくなった。
社会の一員として、社会の構造をつくっている感覚を得て、自分を守ることと他人を守ることのバランスの難しさを痛感するようになったから、そういう描写で気持ちがざわざわするようになったんだなと思う。



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この間美容院に行ったとき、普段読まないものを読もうと思ってクーリエ・ジャポンを見たら、トマ・ピケティのインタビューが載っていた。

私は経済の勉強を全くせずに来たし、「21世紀の資本」も読んでいない。前提知識が少ないので、とりあえず全部「へえ~~」と思いながら読むことしかできなかった。
でも、読みやすいものからでいいから、いろいろ本を読んで、今後の世界をどうすればいいか、みたいな言説を少しずつ知っていきたいなと思う。

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