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90年代後半のニューヨークからもらったもの
私がアメリカ留学をしたのは1996年からなので、もう24年も前のこと。この24年の歳月で、劇的に変わったことといえばインターネットの普及があります。
私はアラフォーなので、アナログ時代とデジタル時代の両方を経験することができたのですが、この時代の急速な変化に戸惑うことも多いです。
でもこの変換期だったからこそ、私はアメリカ生活から、とても大切な物をもらったと思っています。
そもそもなぜアメリカ留学をしようと思ったか
日本では、子供の時から「相手の気持ちを察する」「秩序を乱さない」ということを、とことん教育されます。いかに空気を読めるか。海外で生活するようになると、日本人の「察する能力」ってすごいなあ、と誇りに思える性質でもあります。
ただ日本にいると、人より目立ったり、空気を読まない人、秩序を乱す人への風当たりはとても強い。それは子供であっても同じ。日本人の同調圧力は、今も根強く残っています。
私は小さな頃から自分の意見を持っている子供でした。やりたいこと、やりたくないこともはっきりしている。アイディアがあれば発信するし、違うと感じることに対しては、たとえ味方がいなくても、違う、と言ってきました。
悪くいえば、全然空気が読めないし、ストレートな意見を言うことで、相手の気分を害する事もあったと思います。間違っていると思うことには同調できなかったので、その場の秩序を乱すこともありました。
そのような性格に生まれたせいで、日本では「出る杭」になりました。18歳になるまで、クラスメイトから、先生から、コンコンと打たれてきましたし、へこまないので、今度は除外もされました。
自分では悪いことをしているつもりはないのに、嫌われる。怒られる。早くここから抜け出したい。毎日そう思って18歳まで生きていました。
それが、アメリカに留学しようと思った理由の一つです。(他の理由はまた別の回に書きます)
人と違うのは個性
90年代後半は、学生で携帯電話を使っている人、アメリカの大学でも個人でpcを持っている人はまだ周りにいなかったと思います。
それでも課題を出す時は、当時の日本のように手書きのエッセイや論文などはなく、みんな共用のコンピューターでタイプしたものを、大学のプリンターを借りてプリントアウトして提出していました。
私は日本の高校を卒業してすぐアメリカの大学に留学したため、まだpcの使い方も知らない、e-mailアドレスも持っていないアナログ状態。
ちょっとデジタルなことを宿題に求めらると、あっという間にどうしたらいいのかわからなくなりました。
ある日、数学の宿題で、歴史的な数学者についてのレポートをタイプして20枚くらいで提出、というものがありました。
pcの使い方を1から学んでいる時間などなく、仕方がないので家にあったアンティークのタイプライターで一文字一文字カチャ、カチャ、チーン!とタイプし、数学の課題を出すことに。タイプするだけで1週間くらいかかってしまいました。
さすがにそんなオールドスクールなやり方をしている生徒は一人もおらずかなり恥ずかしかったのですが、数学の教授に「ワオ!アーティスティック!」となぜか感心されたのです。
その方法しか見つからなかっただけなのですが、人と違うけれど、自分なりに工夫を凝らしてやってみたことを認めてもらえた。日本の高校では経験したことがない事でしたし、嫌いだった勉強を、初めて面白い、と感じた瞬間でもありました。
褒められてるのかは不明だけど、それも個性
大学が終わると、ニューヨークのアッパーウェストサイドにある「カフェモーツァルト」という、ピアノの生演奏が人気のカフェでアルバイトをしていました。
そこのカフェで私は唯一のアジア人従業員だったので、お客さんに「あなたは何人?」と聞かれることが結構な頻度でありました。
「日本人」と答えると、決まって、「えー!」「信じられない」とびっくりするのです。
なんでそんなに驚くのかと聞くと、
「韓国人かと思った」「日本人に見えない」「英語がうまいから日本人と思わなかった。」「態度が日本人ぽくない」など、日本人をちょっとバカにしてるのか?と感じるような発言や、なんか褒められているのかも?と思うようなことも普通に言われます。
「日本についてあなたが知らな過ぎなだけじゃない?」と、私ももちろん言い返すのですが、日本では初対面で、決してこんな会話はしないと思うのです。
当時はまだそのエリアに日本人は少なく、日本人がフロアーマネージャーをやっているヨーロピアンカフェもなかったのかもしれない。そもそも「日本人」についてそんなに知られていないし(それにも驚きましたが)google検索もない時代。
たまたまその人たちの周りに英語が上手な日本人があまりおらず、アジア人といえば韓国人、中国人が大多数だったからかもしれない。
しかも、名前が「マイコ」。英語で「Hi, I'm Maiko」と言えば、確実に相手には「Michael」(マイケル)に聞こえるので、「女なのにマイケル?…(一瞬、間が空く).....面白いね!」となるのです。
そんな色々が重なり、態度だけはニューヨーカーの、英語が話せる、名前がマイケルという日本人の女性、というだけでちょっと珍しがられ、褒められ、ありのままの自分を認めてもらえました。
ニューヨークではすんなりと友達や仲間ができ、人生が急に楽しくなった、と感じました。私自身でいても、自分を認めてくれる人がいることが、本当にうれしかったです。
余談ですが、そのカフェはあの有名な「ダコタハウス」の近くにあったためか、オノ・ヨーコさんがふらりとコーヒーを飲みに来てくれた事もありました。
そんなこんなで、ニューヨークは、一人でいてもちっとも孤独を感じない街でした。
ニューヨークからもらったもの
わたしは、ニューヨークで生活したことで、初めて自分を認めてもらえる体験をし、生きていく自信をもらいました。
幸運にも、まだインターネットがそこまで浸透していない時代で、人種のるつぼと言われていたニューヨークだったからこそ、街にうまく溶け込めた、というのもあったと思います。
ネット予約もありませんし、携帯も、ナビもないので、マンハッタンはひたすら何十ブロックも歩いて、どこに何があるのか把握しました。アルバイトも、家の近くのカフェに入っていき、「バイトをしたいんですけど」と直接オーナーに頼みました。
とにかく、やる気とアイディアさえあれば、アナログな自分でもギリギリどうにかなる時代でした。
日本に戻って、今度はアメリカかぶれだと批判されたり嫌われたりしても、(またこの話も別の回に書くとして)ありのままの自分で生きる自信がついたために、気にならないようになりました。
おかげで就職をせずフリーの仕事をしたり、自分のペースで生きることにも不安を感じなかったのだと思います。
ニューヨークは、私が住んだ街の中で、間違いなく一番好きな街です。
(写真は、23年ぶりにニューヨークを訪れた時の写真。当時と変わっていない場所がたくさんあるのも、その魅力です。)
マイコ