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旅の記憶。あるニッポンジンの痕跡

旅が人生の中心だ。
旅してないと私はじわじわダメになる。
だから、記しておこう、あの日、あの時の旅の記憶を。

2012 スペイン・カピレイラ


スペインの都会に少し疲れて、静かなところを求めているとなんとなく、アンダルシア地方にあるシエラネバダ山脈の中にある「カピレイラ」という小さな村。村というか集落にたどり着いた。

偶然たどり着いたこの村で、小さな宿を見つけ、籠った。もう10年もほったらかしにしていたガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読みふけり、考え、昼寝をし、でたらめな夢の中にまじって時折、はっとするような夢に出会い、意識と無意識の中で自分の思考を確認をするという繰り返しを3日も続けていた。

これが、最近、私が試しているなにか自分で新しい事を始めようとする時に心がけている回りくどいやり方。何か神秘的なものから引きづり出してくるのでは決してない。この時、歳も歳だし、仕事で大失敗をしてどん底まで落ち込んでいたので、これからどう生きてくかに悩んでいた。



自分のやりたいことを思いつきと衝動だけで実現するのをいいかげんすっぱり辞めたいと思っている。20代は、そういうことの繰り返しだった。とにかく焦っていた。夢を形にするためにならなんでもしてもいい、するべきだと信じて疑わなかった。それでかなえられたこともあったけど、周りの人達をぶんぶん振り回して来た。結果、巻き込んだ相手も自分もずたずたに傷付けてしまったという過去の反省の積み重ねから自分に課した掟。



まずは直感に頼り、信頼できる人に意見を求め、最後は自分の奥深くからGOサインがでるまでは決して動かない。それで動き出したら、たとえ失敗しても決して他人のせいにはできない。もしそれで傷を負ったとしても納得感が違うし、人を傷付ける可能性は格段に減る。Goサインがでたら、あとは、緻密な計算と人への気遣いなどやらなくてはいけないことは山ほどある。けど、この根っ子さえ固まっていれば、周りも自然と助けてくれるようになるのではないかな。と思う。

今日、宿の向かいのカフェでこんなちょっと小難しいことを考えていた時、

70代くらいではないかと思われる小柄な少し頭のはげ上がったカフェのマスターが声をかけて来た。「日本から来たの?」「そうよ」と答えると、

「東京、横浜、静岡、名古屋、大阪、京都、全部いったことある」というので

「あやしげ…」と思って話半分に聞いていると

「イチムラシュウを知ってるか?」と聞かれた。実は、この村に来てこの名前を聞いたのは二回目。来てすぐに入ったレストランのお母さんも「シュウは素敵な人だった」と言っていたっけ。



「イチムラさん、知らないなあ・・・」と答えると、そのマスターが奥から出してきたのは、茶色く色あせた一枚の日本語のパンフレットだった。日本で開かれた市村修さんという画家の個展によせたもので、目の前にいるフランシスコというマスターが若々しい姿で市村さんの画の横に立っていた。



そのパンフレットによると、市村さんは若い時にこのカピレイラを訪れ、以来ここで25年間絵を描き続けていたという。このカフェとホステルとレストランを経営しているフランシスコがその友情から市村さんを助け、ヨーロッパ各地、日本各地を個展をして廻ったということだった。



そのパンフレットの個展を日本で開いている時、市村さんは癌で余命幾ばくもない事がわかっていて

日本で最後の時を迎えることになりそうだと書いていた。そして、「最後にもう一度、このカピレイラを訪れたい」とそこには綴られていた。



フランシスコは、今もずっと大切に市村さんの絵を飾っているというので

「ぜひ、見せて欲しい」とお願いした。

フランシスコは、カフェの横にあるまだ閉まっているレストランの扉を開けてくれた。



扉を開けると、その壁一面に、数十点の市村さんの油絵がきれいに額縁に入って飾られていた。

わー。一面に広がる市村さんのみてきた世界が広がっていた。


どれもこれも、カピレイラの街の風景だった。白い家やこの街のシンボルの煙突に山々。真っ青な空と日に照らされた白い家というアンダルシアの典型的なイメージとは対照的で、

月明かりに照らされた、どことなく寂しい感じのする、でも、線の柔らかい絵だった。リアリスティックではなく、絵本の挿絵のようなといったら失礼かもしれないけど、見る人によって想像力をかき立てられる様な優しくて素朴な絵だった。



25年・・・。気が遠くなるくらい長い時間のような気が私にはした。



どんな人でどんな思いで描いていたのかはわかりようがない。

だけど、市村さんが描いた絵は、数代先までこの街のあのレストランで人々に見られ続ける事だけは間違いない。フランシスコが生きている間は、情感たっぷりに市村さんの思い出を語り、日本人に優しい笑顔を注いでくれると思う。その次の代には、「おじいさんの友人の日本人がね」ということになり、さらにその次の代には、「確か、中国人とか日本人とか、誰だっけ?」ということになるかもしれない、でも、このお店があるうちは少なくとも、月明かりに照らされたカピレイラの絵は、そこにあり、人の心に市村さんが見たカピレイラの村の姿は残るだろうと思うと何故か胸がぎゅっと締め付けられた。なんと尊いことだろう。



少なくとも、この村の人がこれまでにない程、この村では珍しいはずの日本人を見ても特別視せず、優しい視線を送ってくれるのは、市村さんが25年もこの村に生きていたことを、みんなまだ記憶しているからだと思うから。

なんだか熱い気持ちになって、フランシスコに、「ありがとう」といって手を握ると、フランシスコは、「またおいで」と笑って握り返してくれた。

その帰り道、ふと気になって小道に入った。すると、枯れたひまわり畑があった。私は何故か夢中でシャッターを切る。でも、どうしてわたしは、この枯れたひまわりをこんなに撮りたいんだろう?



いや、違う。私は枯れたひまわりを記録したかったんじゃない。



私の目は、来年の夏には、誰に刈られることもなくお日様に向かってのびのびと花開く真黄色に咲き乱れる向日葵畑をそこに見ていた。希望のかけらを。



そして思った。この旅の前に同じ風景をみていたら、それはただの枯れた向日葵畑にすぎず、もしかしたら、郷愁に誘われて悲しい気持ちになっていたかもしれない。



でも、たぶん、いちばんありえるのはこの場所自体を見つけられなかっただろう。ということ。

ひとり旅は、いつも世界の秘密をふいに教えてくれる、壮大な寄り道だ。世界には魔法が散らばってる。

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