ユーモアとは
うちの夫はとてもユーモア溢れる人だ。普段の何気ない会話もいつだって直球では返ってこない。もはやそれは染み付いているようで、意識的にやっているのではなく自然と面白く冗談まじりにいつだって返してくる。
そんな夫と先日スーパーに入るときに、前から来た男の人がまるでスパイ映画の撮影中かのようにドアの影にささっと隠れて背中越しに中を伺っていた。「えっ・・」と思って中に入ると女の人と娘さんが「パパどこ行った?」と探していた(笑)私は言った。「あなたも側からみたらあんな風に見えてるのよ」夫は言った。「男の人ってほんとかわいいよね。女の人でああいうことしてる人あんまり見たことない」
男女で分けるのは好きじゃないけれど、なんとなくそれには同意してしまった。私は日常の中に効率を求めてしまう。早くこれを終えて、食器を洗いたい。それが終わったら洗濯を畳みたい。夫は自分がそれらをやらないということは確かにあるものの、例えやることになっていたとしても子どもたちに呼ばれたら今やりたい遊びを最優先する。
息子が「ジャンケンホイホイどっち出すの?」にハマっていた時期のある朝、息子が夫に「パパ、ジャンケンやろ〜」と持ちかけた。そこから息子と夫は20分そのジャンケンホイホイをやっていた。平日の朝にだ。私なら絶対それはやらない。食器が全て洗われていても、洗濯を全て干しきっていても、そこまで付き合えない。20分たっぷりジャンケンをした息子はとても満足そうだった。
ところで最近、この本を読んだ。気候変動の市民ムーブメントの勉強のために読みはじめたのだが、思わぬ子育ての向き合い方の勉強になった。少し引用させてもらうと・・
もうひとつの落とし穴は、目標に到達することだけを考えた場合、その過程でどのように動くかとか、どんな手段を使って目標を達成するのかなどが問われなくなる点です。できれば最小限の努力やコストで、最短の時間で目標を達成したい。そうなると、その過程に起きる全てが余計なことになります。
もしかしたら限られた人生、娘を無事に幼稚園のバスに乗せることより、毎日、蜘蛛の様子を二人で観察して驚きや発見に満ちた瞬間を味わうことのほうが大切かもしれない、と思えてきます。
たぶん私たちの日常には、ふだんは気づかないところに「生きる喜び」が潜んでいる。なのに、たいていは気づかずに通り過ぎてしまう。でもそのささいな喜びを人生からすべて取り去ったら、あとに何が残るのか。そう考えさせられます。
私たちは小さいときから好きなことを我慢してがんばりなさい、そうすればよりよい人生が送れる。そう言われ続けて大きくなりました。でも目標を達成したらそこで人生が終わるわけではない。目標の達成は通過点でしかありません。またそこから歩み続けなければならない。大きな目標を達成することだけを目指して、それまでのあいだずっと周囲の変化や他者の姿に目をつぶって耳をふさぐ。そうやって「わたし」の変化を拒みながら足早に通り過ぎていくうちに、私たちは確実に「死」へと近づいています。 〜はみだしの人類学より〜
まさに自分のことだなぁと思った。目標に向かって走り続けるのは正直得意だ。そのために、日常の中のことはうまくまわるようにマネージメントをする。だから20分のジャンケンホイホイはなかなか入る隙がない。でも私以外の家族はみんな、夫も息子も娘も日常のささいな喜びこそを大事にして、今この時を楽しんでいる。
今朝、起きたての娘に呼ばれてふとんに入り「鼻・鼻〜」と鼻をくっつけ合い、「ほっぺほっぺ〜」と頬をくっつけ合う遊びを少しやったところで「起きようか!」と言うと「え〜、この時間がいいのに。」と言われた。この時間に意味を見出せてなかったのは私だけだった。
息子が読みだしたこそあどの森シリーズにハマり、作者の岡田淳さんが図工の先生だった時のエピソードを集めたこの本を読んだ。声を出して笑いながら読み、時にうるっと泣けてしまう、とても良い本だった。岡田さんも、子どもたち相手によく冗談を言う先生だった。大人になって絶対に無くしたくないものは「ユーモア」だなと思った。「ユーモアのある人間でいよう」と思っている時点でユーモアがないし、真面目な自分はつくづくつまらないなのだけど。
9年経った今でもパパと結婚してよかったな〜と思うのはこういうところだ。私にないものをパパが、子どもたちが、いつも気づかせてくれる。「ママ、おもしろくないぞー!」と引き戻してくれる。
今朝、ゴミ出しから帰ってきたら三人が階段の上の廊下で寝転がって待っていた。「ママ〜、聞いて〜」と始まったその話はくだらないけどとても面白かった。