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バレエ作品「ドン・キホーテ」とオペラ作品「セビリアの理髪師」は同じ流れに位置付けられる話。

9月から10月にかけて、東京バレエ団と新国立劇場バレエ団の「ドンキホーテ」を比較して見るという憧れを達成し、気がついたことがある。

それは、バレエの「ドンキホーテ」とは、社会通念に反抗する作品だったのである。

私の解釈はこうである。キトリとバジルは相思相愛、もちろん結婚を望んでいる。しかしながら、親の反対があり、親は貴族との結婚を決めている。これは社会通念である。いつの時代も結婚には親の意志が絡み、そしてお金持ちとの結婚が世の正解とされているのである。バレエ「ドンキホーテ」では、こうした社会通念を徹底的にいじめる。親はキトリたちに騙され、貴族は登場の時点で町の笑い者という設定、頭は禿げていて、剣が抜けない。実際のところ、作品ができた当時の世の中では親の言うことに逆らえないし、身分が上なら敬わないといけない。作品中でこうして正反対の扱いをして気分をスカッとさせる、あるいは仮想として面白がる。これがドンキホーテの作品なのである。

ふと思い出すことがある。新国立劇場のオペラ「セビリアの理髪師」の解説で、スペイン、床屋、下剋上はよく使われる設定、というものである。スペインは作品ができた当時、ヨーロッパから少しだけ遠いところにある異郷の地、というイメージだったそうである。「ここ」ではありえないが、「その」異郷では何でもできる。そういう感覚がスペインだったのだそうだ。

さて思い出してみよう。バレエ「ドンキホーテ」は、舞台がバルセロナ、バジルが床屋、そして、社会通念を覆す結婚という下剋上....!まさにこれである!セビリアの理髪師にあった、よく使われる設定の組み合わせそのものである!さらには女性キャラクターの性格もよく似ている。ロジーナはおきゃんとよく表現され、キトリは活発に、とよく表現されるが、キトリが喋りだしたら恐らくおきゃんだろう。

そうか、ドンキホーテは、セビリアの理髪師と同じ流れに位置付けられる、「ありえないことを現実にさせる」物語だったのである。だから舞台は何でもできそうな少し遠い異郷、スペインである必要があるのだ。

映画「マリー・アントワネット」でアントワネットはこう言う。「ね、最近できたラ・フィーユ・マルガルデって、身分の下の者が身分の上の者に逆らう話なの!すごく面白い!」セビリアの理髪師の元ネタはラ・フィーユ・マルガルデである。なるほど、こういう楽しみ方なのか。

年寄りを騙し、相思相愛の若者が結婚する....良かった、良かった、ハッピーエンド。

若者が親の反対、世の逆を行くほど達成したかったことは、好きな相手との結婚だった。それに初めて気がついた。いつの時代も観客は愛のある結婚を望む。バレエではワシリーエフが大きく改訂し、男性ダンサーが目の覚める技術を盛り込み、作品はここまで残ったのだ。そして、スペインは、そこなら達成できそうな夢の国だったのである。

現代において若者が親の反対、社会通念を押しきってまでやりたいことはなんだろうか。Youtuber、声優、、そう、職業である。職業が生き方を決める時代なのである。もう若者は愛のある結婚など当たり前で、逆にその愛の裏側に気が付いてしまい、もはや望まない。そして、現代において何でも達成できそうな夢の国はどこなのだろうか。少し前ならアメリカ、ニューヨークなどと言えそうだが今はそうでもない。もしかして、日本かもしれない。


それにしても、東京文化会館の4階L側席も、新国立劇場の3階L側の席も、上のほうかと思いきやよく見える、よく見える。

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