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新国立劇場オペラ「蝶々夫人」の感想文

 バレエ見物客が見るオペラの感想シリーズである。長すぎてもはや鑑賞メモである。

 3回目の蝶々夫人を見た。1回目は二期会オペラで東京文化会館、2回目はウィーン国立歌劇でオンライン配信、そして今回である。

 私はプッチーニのオペラが大好きだ。そしてこの「蝶々夫人」が最も好きだ。

 プッチーニのオペラには様々な悲しみがある。例えば、「ラ・ボエーム」は夢半ばでこの世を去る儚さという悲しみ、「トスカ」は運命に見捨てられたという、悲観の悲しみ。「蝶々夫人」は信じていたものが崩れ去った、つまり裏切られた悲しみを描いていると思う。

 私は蝶々夫人の登場の場面でいつも涙が出てくる。最後の運命を考えると、登場時の晴れやかで幸せそうな顔が逆に物悲しくさせる。

 まあそれにしてもプッチーニのオペラはほぼ全て人が死ぬような気がする。あの喜劇「ジャンンニ・スキッキ」だって富豪が予め死んでいて、その遺産相続の話だ(死の意味が違いますね)。

目次
(1)セットについて
(2)大階段の意味について
(3)演出について
(4)乳白色の大理石のような音楽
(5)「さくらさくら」の旋律
(6)キャラクターについて
(7)疑問
(8)最後に

(1)セットについて――シンプルで象徴的

 まず目を引くのは、上手奥から舞台上方を横切っている大階段。蝶々夫人とピンカートンの邸宅は坂の上にある(私はここで神戸のグラバー邸をイメージする)ので、今までに見たオペラには全て下手に階段とそれに続く坂が設置されている。しかし、今回の階段は坂の意味を持つだけではない。実際、坂なら部屋の上手側に下り坂が設けられている。次の項目で語る。

 セットは象徴的な物のみを配置している。新国立劇場らしい。二期会オペラ、ウィーン国立歌劇場のどちらも日本家屋が舞台の上にあったが、象徴的な物のみにすることによって、より精神世界を描くことができる。

(2)大階段の意味について――上り下りで人の縁を表す

 人の縁を表しているように思えた。領事を除いて1幕の登場人物全てがここから登場する。ピンカートンと蝶々夫人は登場で階段を下りて来たことで縁を結び、親類縁者はこの階段を登っていったことで蝶々夫人と縁を切る。蝶々夫人が次に階段を登って最上まで行くのは、第2幕でピンカートンの到着を待つ時である。そして、ピンカートンが次に階段を降りるのは、アメリカの妻を連れて来る時である。主人公たちは階段を使う一度目に縁を結び、二度目に縁を切った。階段を使うのはただ人物の登場を目立たせたいだけなのかもしれないが。領事は登場の際、階段を使わずに、上手側の坂から現れる。彼は仕事として誠意を持って蝶々に接するため、関係性の外側にいるからなのかもしれない。

(3)演出について――日本人の無意識の所作、信じる者の強さ、桜吹雪、自死の場面、音の間

 全体的に、所作が日本人そのもので違和感なく見ることができた。これは日本人が演じるがゆえの無意識に刷り込まれた動きだからなのか。まずどの登場人物も、特に蝶々夫人も、肩より上に手を挙げることがない。したがって不必要に肌が見えることがない。ウィーン国立歌劇との比較でいうと、悲劇を演じるためか、腕を垂直に掲げ、二の腕があらわになる場面があった。本来、和服は肌が出るのをよしとしない。阿波踊りを見ればわかるように、肩より上に手を挙げるならば腕に手甲という布を巻くのが基本である。

 今回の蝶々夫人の演じ方は「信じる者は強い」ということを感じた演出だった。1幕の覚悟を決めたきっぱりした様子から、2幕では周りが何と言おうと、夫が必ず帰って来ることを信じ続ける信念の強さがあった。そしてピンカートンの船が着いたことがわかった後の、なんと希望に満ち溢れた歌唱。ピンカートンの帰りは本当にあると思いたくなるほどの、落ち着いた姿勢だった。一味違う蝶々夫人を見られて楽しい。ちなみに二期会オペラはここで、不安な様子を隠すかのような痛々しい笑顔の立居振舞、ウィーンオペラは狂気に満ちたかのような荒々しい感情をほとばしらせていた。

 第2幕の冒頭から床に散らばる、桜吹雪の使われ方も考えさせられた。ある時は、蝶々夫人が語りながら吹雪を手で救い、ピンカートンの到着に合わせて部屋を飾り付ける時は床の吹雪と天井から振る吹雪があった。蝶々夫人の内面、気持ちの変化に合わせているのかもしれない。蝶々夫人の内面に合わせていると言えば、ティンパニーの音もはっきりと演奏され、蝶々夫人の心臓の鼓動を表しているかのようであった。

 改宗して日本社会との離別を図った蝶々にもはや戻れる道はない。自死の場面では、最後に子どもが蝶々夫人にゆっくりと歩み寄る。堂々とした子役の方の演技に脱帽である。舞台には彼女と子どもの二人だけが残った。

 また、2幕の終盤ではところどころに音のない間があり、蝶々夫人の心情を痛いほどに想像させられた。

(4)乳白色の大理石のような音楽――オーケストラと声とが作る私のイメージ

 これは私がプッチーニのオペラを聴くときに感じることを文字にした。イタリア語(意味はわからないが)の音が伸びて、そして希望から憂いにかかるソプラノの声が、無垢である白にややピンク掛かった印象に聴こえる。また、バイオリンの、感傷的で聴かせる旋律も何か厚みのある物をイメージする。そして声が上に当たって降りて来る様子が、元々の美しさと、磨かれたより光を照り返す艶々した大理石のように思えた。

 

(5)「さくらさくら」の旋律――おしゃれな使い方

 第1幕の蝶々夫人の持ち物を紹介する場面の伴奏に「さくらさくら」の旋律が流れている。何回聴いてもおしゃれな挿入だなあと思う。オペラ好きの家族に聴いた話では、プッチーニの自宅の周辺に日本人が住んでいて、よく歌が聴こえて来たことが影響を与えたのではないかということである。

 話は変わるが、あまり音楽そのものを聴かない私でも、Babymetalの「メギツネ」という曲と己龍の「転生輪廻」という曲にも「さくらさくら」のモチーフが使われていることを発見した。だがしかし、どちらも間奏に入れて目立たせている。プッチーニのようにさりげなく、ではない。他の曲で「さくらさくら」のモチーフが使われている曲を知りたい。

(6)キャラクターについて――5人のキャラクターの印象

 ピンカートンは蝶々夫人の一途な思いに気押され、最後、彼女に会うことはない。罪悪感を感じる普通の人間として描かれていたかな。

 ケートは善人として登場する。ピンカートンの正妻である彼女に悪意はなく、また、蝶々を蔑む様子もない。

 ゴローは今で言う、「コミュニケーション能力が高い」「口から生まれた」ような軽い物腰の印象。

 ボンゾーはほんのわずかな出演時間だったが、鬼気迫る演技も迫力があって良かった。

 スズキは蝶々夫人の立場からピンカートンとの関係を見るため、いつも悲しそうな顔をしている。ついでにいうと、この2人の関係は近いようでいて非常にあっさりしている。日本人が描くお手伝いさん像は、もっと奥様とその家庭にどっぷり浸かって寄り添っているのかもはや家族なのか、という描かれ方が多いような気がする。やはりここは西洋的主従関係の一つなのかもしれない。

(7)疑問

 イザナミ、イザナギ、なぜよりによって猿田彦の神なんだろうか?

(8)最後に――観客の視点

 演者と観客の間には壁があり、絶対に埋まることのない溝、と書くライターがいる(神谷敦彦『ヴィジュアル系の深読み話』より)。反対に、見る側の「主体」は見ている「対象」に分離して入り込み、演者と共にある(作中では踊る)ことで見る喜びを感じる、という評論家がいる(鈴木晶『バレエの魔力』より)。この二人は一見反目しているが、実は同じことを言っている。神谷さんの場合はバンドが語る個人的なメッセージを読み取るという度合いが強いが、ステージにあるモノを見る方法は人により様々であり、ステージから受け取るモノも人により様々であるということである。それはつまり、観客との理解に齟齬が生じる場合もあるのだということで、絶対に埋まらない溝として言われているのである。