【小説】知られざるリモートワークの歴史

リモートワークの歴史は極めて古く中国の明時代まで遡る必要がある。


 李蒙途(りもうと)は漢民族とモンゴル系部族の間に生まれた。混血である故に忌み嫌われたが類い希なる肉体と才覚を持ち、数多くの武勲を築いた明時代伝説の英雄である。


永楽帝の時代、明は最も安定していたと言われるが、それは圧倒的な武力を誇示し続けたためであった。もともと明という時代は「元」支配下に反旗を翻した事から始まったため、漢民族とモンゴル系部族のぶつかり合いが時代を越えて行われていた。


 1401年。現江南地域を支配していたモンゴル系部族のオンザーヂは近くの漢民族の濫鄭という村とせめぎ合っていた。国境線という概念はまだ無いもののいわば縄張りを争う死闘が日夜繰り広げられ双方は疲弊していた。

そこでのオンザーヂ酋長チャダンは自らの娘チメグを濫鄭の村長の息子と結婚させ、休戦をしようと申し出た。この出来事に濫鄭の民は喜んだ、村長の息子・李道善(りどうぜん)はかなりの醜男で荒くれ者であったため嫌われていたのだ。それに対してチメグは目鼻立ちのハッキリとした美人であった。2人は結ばれ多くの子宝にも恵まれ、その地域は16年に渡り平和が続いた。


 しかし、その平和は突如として破られた。戦いの歴史というのは上塗りと忘却である。濫鄭の50里ほど南に位置する村が生活に困窮し移民が大量に流れ込んできた。移民たちはモンゴル系部族となじむ事ができず、彼らを責め追い立てた。それは村長の家も同様であり村ごと乗っ取られる形となった。オンザーヂと濫鄭の民は共に流浪の旅をしながら暮らすことになる。厳しい冬が訪れ1人また1人と倒れていった。3000人ほどいた人々が100名にまですり減った時、彼らはやっと王都へとたどり着いた。


 王都での彼らの扱いは極めて厳しく奴隷か兵として生きるしかなかった。その中で兵として1人頭角を現す男がいた。チメグと李道善の息子・李蒙途(りもうと)である。道善は荒くれ者であったが剣の武があり幼少期からそれをたたき込まれていた故に李蒙途は兵になってからも負け知らずであった。それにチメグの血を多く引き継いでいたため、眉目秀麗であり彼には多くの人が集まった。剣を振るえば風が捲き起こり、振り返れば女が倒れると呼ばれるほど容姿と力に優れた人間であった。

 

 兵に入るまでの面白い経緯がある。当時18歳の李蒙途は生き残った病床の母の為、男娼となる事を迫られていた。顔は整っているがあまりの長身巨漢買いに来る男はたじろぎ彼には値段が付かなかった。そこで彼を買うと言ったのがお忍びで男漁りにきていた皇帝・永楽帝であった。

「なんと見事な、まるで馬を眺めているようだ」

永楽帝は彼を買い取ったが夜伽にはせず、金を与え兵に放り込んだ。

「こちらの方が万事活躍するであろう」

皇帝の考えは見事に当たる。普通1年の訓練期間を置くところ、1週間で部隊へ入り大活躍を見せる。

 彼の逸話は数多くあり初戦で「馬に蹴り勝ち、肉を喰らい、皮を鞣し金を作る」というものがある。敵の騎馬部隊の馬をドロップキックで殺し兵糧として用い、皮はなめして防具を作って売った。これは平常彼が行っていた事であり、文字通り朝飯前であった。

 ある日力比べとして李蒙途にケンカを売った男がいた。

「剣がいくら強くても相手が遠くから石を投げてきたらどうする事も出来まい」

「なるほど、では投げてくれ」

李蒙途は拳ほどの石を投げさせた、それを剣ではじき返し見事に男の顔に当てた。この技は戦でも用いられ雷薙(らいな)と呼ばれ、これが現在の野球におけるライナーの語源だとはあまり知られていない。


 その他にも敵の女軍師を娶る、馬に惚れられるなどの浮名を流し都では彼の名を知らない者がいないほどの英雄として扱われた。

 軍事での彼の功績は極めて大きく異例の早さで出世し遂には皇帝直轄の部隊へと入る。皇帝は李蒙途を特別優遇し、オンザーヂと濫鄭の民を解放し都に住む権利を与えた。

 李蒙途は皇帝に感謝し、当時の政策の1つであった領地拡大のための外国遠征に自ら出願した。遠征先での活躍は素晴らしく現ベトナムにあった陳朝(ちんちょう)の王族を殺し、王朝を崩壊させ混乱に陥れて陳朝を支配した。


 この李蒙途の活躍から「遠く離れた場所でも自らの使命を理解し責務を果たす」その行為自体を彼の名を取り、李蒙途(リモート)と呼びシルクロードに乗りその伝説と言葉は世界に広く知られ現代英語として今日使われるようになったのはあまり知られていない。


 だが1つ問題が起った。李蒙途がベトナム統治から帰還する間に永楽帝が急逝し、皇帝が変わってしまったのだ。正統帝は極めて臆病であり、排他的であったため李蒙途の一族を混血の悪しき象徴で謀反を起こすかもしれないと思い、処刑してしまったのだ。帰ってきた李蒙途は絶望し暴れたが最終的に捕らえら処刑された。

 彼の最後に「義を欠くものが皇帝であるはずがない」と言い放ちこの世を去った。


200年後 明を滅ぼした李自成が蒙途の子孫であった事はあまり知られていない。

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