東條大樹の投球が見たいんだ
その日の午後7時。私は異様な全身の疲労感に襲われてテーブルに突っ伏していた。
朝、急行に乗り切れず押し出されたからか。
帰宅のぎゅうぎゅう電車でずっとうつむいていたからか。
どちらのせいでもない。
極度に緊張したからだ。
ーー
これから遊びに行く大勢の客を一気に下ろして軽くなった電車が、朝の東京湾を映した。
陽光が燦々と車内に降り注ぎ、私は眩しさに片目を閉じる。
もう片方の目で湾の向こうに見えるスタジアムを探す。この場所からいつも見えるのに、朝霧に霞んで判然としない。
何度となく通ったルートだが、この時間にスタジアムへ向かうのは初めてだった。
トライアウト。つまり、戦力外通告を受けた選手、あるいはNPBに所属したことのある選手がスカウトの前で受けるテスト、が行われるのだ。
シーズン中の試合であれば、その日のことはだいたいわかる。試合開始のこのくらい前に来るとアップする選手がみられる、ということも知っているし、スタメンやベンチ入りメンバーも、前情報があるので予想はつく。
でも、今日は違う。誰が出るのか、どんなふうに進むのか、情報が少ない。
到着した球場の外周の木々からは9月の終わりにまだ聞こえていたセミの声などするわけもなく、ひんやりと静かな空気がつつみこんでいた。いろんな色のユニフォームやグッズを身につけた人が客席へと向かっていた。
ーー1ヶ月前
千葉ロッテマリーンズ
「13選手の来季契約について 本日10月6日、東條大樹投手…契約を行わない旨を通知…」
ととととうじょう?!
それから私は自分の2024年を振り返った。
一度もファームの試合に行かなかった。神奈川県在住である私はいつもベイスターズの2軍本拠地である横須賀の球場へ、マリーンズ戦に合わせて行くのだが、今年は行けそうな日ないなぁ、などと悠長に構えていた。そしてシーズンが終わった。
思い出せ。マリーンズのホームである浦和の球場に行ける日は、おそらくあったはずである。
なぜ、行かなかったのだ…
後悔。もうマリーンズの東條がみられない…
全くもってバカとしか思えない。
そうだった。私はいつもシーズンが佳境に入ってから、徳を積んで勝てるように神頼みするような人間でした。
毎年同じことを繰り返しているのです。徳を積むなら年中やればいいのに、ぽやーっと過ごして、これはやばいぞ、という状態になってから急にちゃんとしているフリして神だろうが仏だろうがすがりつこうとするのです。
愚か者だよあたしゃ…
そんなわけで、私はトライアウトのチケットを購入したのだった。
もしかしたら、東條はもう行く先が決まっているのかもしれない。私が知らないだけで、周知の事実なのかもしれない。
そう思いながら、グラウンドでアップをしている選手たちを追った。
いた…!!!
今日、投球が見られるという嬉しさと、ちょっとした不安が入り混じる。
9時45分。アナウンスで選手がベンチ前に召集された。何やら説明を受けている。
それを見ていると、急にこの「場」の意味が降ってきた。
目の前に広がるのはマリンスタジアムに違いないのだが、この「場」はいつもと違う。
粛々と進んでいく、静かな環境。
私も何か前に似たような状況に立たされたことがあった気がする。
受験?
いや…
高校の陸上の大会…?
記憶を呼び戻すと、確か陸上では、「コール」に行かねば失格となった。一度目は、スパイクの針の長さ、ゼッケン、そんなものを確認していた気がする。そのあと、サブトラックでアップをする…自分のレースのいくつか前にスタート地点に集まり名前を確認…それが最終「コール」だったか…
それは、ひとつひとつ、スポーツの本番、「場」に向かう儀礼のようなものだ。
普段のプロの試合ではあまり感じることがないことだった。
おそらく、毎回選手は試合に向けて同じように段取りを踏んでいるのだろうけれど、ショーアップされた球場では観客には隠されているのだ。
今召集された選手は、ユニフォームを着てはいるがそれはバラバラで、各々が所属を持たない一人の個として存在していた。そしてこれは全くショーではないということが現実として立ち上がった瞬間だった。
いつもは通ることができるバックネット裏にはたくさんのスーツのおじさんが仰々しく座っていて、観客は立ち入り禁止だった。
それは面接と似ていて、この「場」が人生のひとつの岐路に関わるということを強く感じさせた。
私は、ぴんと張った空気にずっと緊張が解けなかった。
マリーンズの選手がバッターボックスに立つたびにその緊張感はぐっと上がる。
12時半。お昼休憩のアナウンスが入ったが、マリーンズの投手はまだ出てこなかった。
空腹だったが一瞬たりとて見逃すわけにはいかないと思い、昼食は取らなかった。
お腹は鳴ることさえ忘れた。
お昼休憩が終わってトライアウトは再開された。
握ったカメラは、信じられないくらい熱くなっていた。
そしてある一瞬、目の前のベンチから東條が出てきた。
同時にカメラを向けてシャッターボタンを押…す…
が、押し切った感触がない。
Card Errの文字。
ほんの数十秒前まで元気に記録してくれていたはずのカードに異常が出ていた。
なぜ今!!!
私はカードを抜き差しし、入れ替えをしてようやく撮影を始めることができた。
投球練習。
撮った。
ただ、はじめ血迷ってなぜか動画を録った。
マウンドで投げる東條を撮った。撮りまくった。(帰宅後撮った写真を見たが、あまりいいとは言えないものだった。リリースの瞬間、目を完全に離したから。)
投げていた。少しくの字になってボールをグローブで包む構えから動作に入る。伸びた右腕から繰り出される投球は、唯一無二の軌道でミットに吸い込まれる。
これだ。これが見たかったんだ。
ストライク先行。
ひとりめはセカンドゴロ。
後ろに座っている女性が漏らす。
「いいんだいいんだ。きみはそういうタイプだ。三振じゃなくていいんだ。」
ふたりめはスリーベースになった。ランナーが進んで、ベースカバーに走る東條が目に入った。
いいところと悪いところが凝縮したような数球だった。
東條はベンチ前に戻ってきて、客席を見て手を振った。穏やかで、落ち着いた面持ちで。
私はまた見にいく!どこかわからないけれど、今年みたいな怠慢はしない。きっと行くから投げてくれ…
そう祈るしかなかった。
吉田凌と菅野剛士のマリーンズの選手同士の対戦となったとき、一人の観客が叫んだ。
「どっちもがんばれ!!」
その通りだった。おそらく、観客全員そう思っていた。この対戦だけではなくて、本当は朝からずっと…
私の緊張はトライアウト終了まで続いた。
カメラをしまって球場を出たが、そのまま駅に向かうことができずマリーンズストアに寄ってみた。
シーズン中とは比べ物にならないほど空いていた。
数年前、ここでユニフォームに背番号20とネームの圧着をしてもらった。
あの時担当してくれたスタッフの方は吉田裕太が好きだと、東條さんおひげかっこいいですよねと言っていたなぁ。お元気だろうか。
もう圧着のブースはなかった。
ストアから出ると人がたくさん出待ちをしていた。
私は近くの海に行くことにした。
海があるのはいい。
間違った道を入ったせいで、砂山の上を歩くことになり靴の中が砂だらけになった。
風はほどんど吹いていなかった。
遠くにタンカーが何隻も見えた。
朝はあんなに霧がかかっていたのに、遠くの工場が吐き出す煙の形まで見えた。
釣りをしている人が竿を振りかぶって投げていた。
若者がキャッチボールをしていた。
全く綺麗ではない海。
ーー2月
石垣島の海は曇天のせいで鮮やかさに欠けていた。
それでも、瞬間的にも日が照ると驚くほど日焼けする。私は不覚にも、腕に日焼けのラインを作ってしまった。
その日私は、ほぼ正面から、東條の投球を見られる機会があった。
ブルペンではその右手から放たれたボールがキャッチャーミットに何度も吸い込まれていた。
ボールを受けるキャッチャーの松川虎生の声が気持ちよく響いている。
「はいストレート!」「ナイスボール!」「はいスライダー!」
そのあとマウンドに上り投じられた数十球は、どれも美しい軌跡を伴っていた。
映像ではわからない。
迫ってくるボールの軌道は、村野藤吾が手作業で引いた設計図を元に、職人が何度も鉋をかけて作り上げた階段の手摺のカーブのような、決して派手ではない優美さがあった。
ただ、その日のスライダーはいつものスライダーよりまだ曲がりが足りないように思われた。
投球後、松川と東條はにこやかに話をしていた。こんな印象でした、今後こうしていこう、あと少しでいいボールが仕上がりますね、そんな会話を想像させた。
開幕が楽しみでしょうがない。今年は先発に挑戦すると監督も明言していたし。
数日後、まだ石垣にいた私は、目の前の試合を見ながら、沖縄本島で先発した東條が怪我で降板した速報を知った。
それから、どんな数ヶ月だったのだろう。
ファームの試合を配信で振り返るだけではわからないことが多いはずだった。
もっと良くなる。
また見たいんだ。あの美しい軌道を。
ーー
暗くなった道を歩いていると、ある建物の壁に映像が映し出されていた。
それは珍しいことに、野武士を追ったドキュメンタリーだった。
私はつい立ち止まってその映像に見入ってしまう。
風にまかせた頭髪に髭面で、頑強な肩だが柔和な顔つきのその野武士は、手のひらを上にしてふっと息を吹きかけた後、前を向いて刀を一度後ろに引き、するりと左右に振る。
その動きはなめらかで、何のことはないように思えた。
しかしその瞬間、何かが斬られたようであった。映像はそこで途切れた。
私はというと、突っ伏していた机から顔を上げても、その手に握られた刀の反射が描いた軌跡が頭の中に残って離れない。