はじめまして、こんにちは。
こんにちは!武重麻衣子(たけしげまいこ)です。
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noteの使い方もよくわからないまま初めて発信してみますので、読みにくいところがあるかもしれませんが、ご愛敬ということで・・・
初めての投稿は、まずは私の自己紹介をしてみようと思います。
生まれは佐賀県、育ちは大阪→埼玉→大阪→横浜の転勤族でした
父はよくある超絶学歴主義の九州男児。母はおおらかで、妻としての役目をきちっとこなすしっかり者の明るい九州妻。そんな2人の間に次女として生まれました。
幼いころから父親の仕事の関係で、関東と関西の行き来をする転勤族でした。
幼稚園時代
基本的に目立ちたがり屋の性格で、お遊戯会も先生から主役のご指名をいただくような子どもでした。しかし実はこころはチキンなので目立てる!となると一気に逃げていくというあまのじゃくな性格でした。今思うとすでにこのときから今の私が出来上がっています。(お遊戯会は自ら断り、わき役を志願するという・・・母を泣かせました笑)
女の子の遊びは苦手で、基本的に外を走り回り、運動が大好き少女!密かにアイドルに憧れていたが親にいうと笑われるので一切それは表に出さず、ボーイッシュに育ちました。ほとんど男の子と遊んでいたように思います。
小学校~中学校
この時期が引越しの連続時期。転勤族も慣れたもので、まずは1か月くらい環境適応に時間を使いました。方言も違ったので、周りがどんな言葉を発するのか、どんな人たちがいるのか、無意識的に人を観察する癖があったように感じます。これは自分の防衛機能で、嫌われたくない、変な奴に思われたくない、そんな感情があったように思います。
この経験のおかげで、自分の特技としては”新しい場所への適応能力が高い”ということ。世の中には色んな人がいるということを身をもって体験しているのでそれに対しての偏見はあまりないように思います。
逆にこの経験のおかげなのか?環境に影響されやすいということもネガティヴな側面として持ち合わせている可能性があるということを最近思うようになりました。
超絶反抗期の高校時代
このころの私は初めての挫折を味わい、よくある反抗期も重なり、とはいえ良くも悪くも私らしい高校生時代を送っていました。
当時学区制が敷かれていたのですが、学区TOPの県立進学校に合格した私。入ってみるや否や、周りの優秀な同級生にはかなわないと一瞬で頑張ることをやめるという選択をとりました。そう決めるとすごく自由になった感覚があったようにも感じますし、投げやりになっていたようにも感じます。
遅刻回数は年間100回を超え、期末のバツ掃除は遅刻の多い生徒がやるという先生だったので毎回常連(笑)3年生になると、保健室という技を覚え、まずは保健室に直行するという生徒。(でも受験のために塾は通ってたよ笑)
部活動も盛んな高校でしたので、週6は部活動に専念。ハンドボールという球技を行っていました。チビなので右サイドのポジションをやってました。途中顧問が県選抜の監督に代わり、弱小チームから今や全国レベルのチームになるという変革期に所属しておりました。そこでもよく反抗してましたね。
働くことが好きだったので、定番のマクドナルドが初めてのアルバイト。年上の方と仲良くなって、部活→バイトの繰り返しの生活を送っていました。
現役大学生時代
このタイトルを見るやすでにおかしいと思うのですが、まあ上記のような高校生時代を送った私は、現役時代第一志望校への合格切符をつかめず、本心とは異なる大学に入学をしました。親からの「浪人は許さない、絶対に現役で入れるところに入りなさい」というしつけ?があったのでやむを得ない状況だったのです。
実際は自分にもどうしてもそこに入学したい!という強い意志がなかったのかもしれません。説明できないものに親も許可は出さないですよね・・・
とりあえず入学したものの違和感は最初の1カ月ほどで生まれていたと思います。このまま4年間ここで時間を過ごすことに何の意味があるのだろうか、と早々に思うようになり、専門学校に行こうと短期の美容専門学校に体験入学してみたり彷徨っていましたね。
私の人生を変えた恩師からの電話
そんな悶々としていた時に、予備校でお世話になっていた先生から突然電話がかかってきたのです。
先生「お前今どんな感じなの?」
私「全然この学校にいる意味を感じられないから、専門学校に行こうか迷ってる」
先生「じゃあもう一度受験しなおしなさい。必ず次は受かるから」
私「でも親が許してくれないし、予備校に通うお金とかも無理だと思うんだよね」
先生「数学はただで教えてやる。(数学の先生だったので)受験費用は親が出してくれないなら俺がだしてやるから」
私「じゃあ、受験しなおそうかな」
というなんとも安易な会話ではあったのですが、ものすごい先生が私を信じていてくれたことが大きくて、ものの10分ほどの電話だったかと思いますが、その直後に母に「大学辞める!もう一度受験しなおすことにした!絶対に受かるから何も言わないで!」と宣言。
決めたことへの行動は早く、次の日には学事部へ行って、退学か休学かの相談をしに行ってましたね。
結局休学を選択するのですが、休学中の怒涛の受験勉強は思い出すだけでも壮絶・・・毎日13時間の勉強を1日も欠かさず試験まで行い、やり抜いた。地区センターで浪人仲間ができたり、この時に出会い、仲良くなった友人とは今も交流があることは言うまでもありません。
掴みとった第一志望校の合格!
結果的に上智大学という学校に入学をすることになりました。ここでの学生生活は本当に楽しかった!勉強は中の下くらいでしたが(笑)
とにかくグローバルな感覚の学生が多く、3人に2人は普通に英語をしゃべるような環境でした。それまではどこにいってもマイノリティな私でしたが、ここにいる人種はその巣窟ともいえる、のびのびと自由な人種が多かったなあと思います。
きちんと自分の意見を言えて、自分のやりたいことをするという活動的な友人ばかり。自由すぎてまとまらないなんて弊害もあったかもしれませんが、それも全て楽しかった!という感想に集約できる4年間でしたね。
アルバイトをしては海外旅行に行くを繰り返し、学生生活を存分に楽しんでおりました(*^^*)大学進学がゴールではないですが、もし自分の子どもが大学生になりたいのであれば、おススメだけはさせていただきたいなと思う学校です。
新卒で大手企業に就職
自分のやりたいことは特にわからず、とりあえずみんながやるから就職活動をし、当時1番主義だった私は迷わず業界TOP企業ばかりを受けていました。(あるあるですね、学生が失敗する就職活動的な・・・)
結果的には、志望業界には行けず、興味はなかったけれども業界のNo1企業に入社しました。
ここでの経験はいまでも非常に価値のあるものではありましたが、自分の居場所はここではないということに早々に気づいてしまい、3年目でさっと手放すということをします。この時の家族・親戚の猛反対の嵐はすごくて、私が何をやりたいかと聞いてくれた大人は一人もいませんでした(笑)
「とりあえずこんないい会社に入ったんだから続けなさい!」とか
「もったいない!絶対続けたほうがいいのに、あんたはバカね」とか
まあまあ色んなこと言われてました笑
そんな声にひるむことはもちろんありませんでしたので、さっと退職届を提出し次も考えずとりあえず辞めてみるということをしました。
大好きなブライダル業界へ
とにかく「美しい」ものが好きで「ヒトとのコミュニケーション」が好きだった私は、ご縁のあった方にお声がけいただきブライダルの世界でお仕事をしていました。
ゲストハウスウェディングを営む会社で、美しい会場、きれいなドレス、かっこいい映像、素敵なお花、きれいな歌声に包まれてお仕事をしていました。
と書きつつも、裏方はもちろん大変なことも多くきれいな部分だけではなかったものの、結婚式当日は本当に美しいものに包まれて最高の空間でお仕事をさせていただいておりました。
キャリアの挫折
本当に好きだった業界でのお仕事は、子育てとの両立が難しく、また周りに子どもがいる女性はおりませんでしたので、なかなか理解をしてもらえず、必死にくらいつきつつも第2子の出産でその先続ける事はできなくなってしまいました。
ここで、またご縁のあった方の会社でお仕事をさせていただけることになったのですが、全くの未経験で社労士の世界に入ることになります。
なかなかのお堅いお仕事で、0から勉強し、士業の世界で約4年お仕事をさせていただきました。
興味はなかったけれども、お仕事をさせていただけることに感謝をし、どこにいてもベストパフォーマンスをするという信念は変わらないので、一生懸命お仕事をしながら徐々にキャリアへの自信を取り戻す期間となりました。
この時に国家資格であるキャリアコンサルタントの資格をとることになり、現在につながるわけなのですが、これから先の話は次回に・・・ということにいたします(*^^*)
とまあ長くなってしまいました!
ここまで読んでくださり、ありがとうございます(*^^*)
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