【分析】YOUTUBEのコメント欄ネター民主主義国家における政治家&国民の(政治的)責任と裁量の在り方は(日本においては特に)それを定義する者(側)に全て委ねられるという不思議w
こんにちわ、政治について色々語る顕正会員です。
【速報:岸田総理退任】さらば、増税メガネ。「彼は立派に勤めを果たしました。首相に求められる資質、それは生贄になることです」【岡田斗司夫 / 切り抜き / サイコパスおじさん】 (youtube.com)
さて今回も岡田斗司夫さんの動画をご紹介…なのですが↑の動画はタイトルこそ「現在の岸田総理に(岡田斗司夫さんが)物申す」というものですが、動画内で語られている岡田斗司夫さんはもう数年以上前なので、ズレがありますw
前に一度観た動画なので内容にはあまり言及しませんが、コメント欄少し気になったのでこちらで引用させて頂きたいと思います。
@user-ur1pf2iz4b
18 時間前
誰が首相やっても文句は言われる。ただ、行政の問題は誰か一個人の責任ではない。 たとえ独裁者が居たとしても、国全体を全て意のままに動かす事は難しい。 まして日本は民主主義。政治の責任は国民全員にある。
はい。これは5ch、Twitterなどでよーく見かける種のコメントなんですよねwもう、同じ人がずっと5年前10から、至る所でレスしているのではないかと思う程ですよw
つまり、例えるなら国民が国会議員、市議会議員に投票したという事実が今現在の政治・政権・行政・首相という結果を生み出したのであるから、
責任と裁量(まで)も国民・市民にある、と断定してしまっているパターン。動画内(後半)の岡田斗司夫さんとはほぼ真逆の考え方ですね。
この手のタイプは、「殆ど100%,10割国民市民に責任と裁量が」と言っているようなもので、例えば選挙前に「投票しない人間がとやかく言うな」「投票しない人間には人権は無い。民主的な権利を自分から放棄する国民には何一つ主張する権利さえないのだ」と声高らかに強気で仰っていたり、選挙後に「お前たちが投票した結果だろう。お前たちが〇〇首相を選んだ。その結果政策が国民市民の理に適うように機能しなかったとしても、投票し選んだのは国民なのだから、何一つ文句を言う筋合いはない」とか言っちゃう人ねw一体何様というか、何処の県に住んでて一体どんな仕事されている方なんですかぁ・・・と毎回思う。主張されてる所、一度もTVやネットで見たことないんですよね。文面のみです。
@user-nu8er9yv5t
11 時間前
無いです。 子供にし責任を押し付けないでください。選挙権も無いです。 じゃあ若者が同じだけ責任あるのかって無いです。 責任は年齢とともに比例して拡大します上限はありません。これは民主主義として踏まえてこ置かないとね。 一票の価値に差はない制度やけど、責任は個々に違います。民主主義は責任をぼかしすぎです。
こちらがそれに返信された方のコメント。全くその通り。子供でなくても押し付けられたくないwつまり「投票者」「白票を投じた方」「無投票者」3パターンとあるとして、それらを一緒くたに「民主主義社会における一人一人の責任」と括ってしまう場合、政策を決定し断行する政治家の責任が更に蔑ろにされてしまい易く、または透明性が強調されてしまう可能性も出てくる。そう私は考えるわけですが。何かその「全員に、一人一人に責任があるんだぞ」これって第一次世界大戦中の日本全体主義っぽくありません?脅迫掛かってると言いますか。大日本帝国の先導者の末裔かよっとー。一見、一種妥当性はあるのですがね。
@user-ur1pf2iz4b
この国に居るだけで多少の責任はある。たとえ短期間の旅行に来た外国人でも、何か行動を起こせばほんの少し世間に影響を与える。生きて存在しているという事は力だ。力には責任が伴う。何に対しても全く責任が無いと主張するのなら何の権利も持ちえない。
自分がこの記事でこの方のコメントを引用した理由の一つですが、なんと一度発言してそのまま背中を向けて去っていくという従来のパターン・法則からはこの方は外れていて、なんと二度目の返信を返してきてくれた(笑)のです。
>この国にいるだけで多少の責任はある
言いますねーw例えばこの「国」というワードを、学校とか、職場・会社などに置き換えたり、「地域」に置き換えてみて、それぞれの県・市に実際当てはめてみると、彼の思想、立場が何処にあるか、少し見えてくるものもあるなと私は思うんですよね。
>生きて存在しているという事は力だ。力には責任が伴う。何に対しても全く責任が無いと主張するのなら何の権利も持ちえない。
こういう人wwいや、たまに、たまに会うんですけどね、こういうタイプの御方wwいや面白い。この人にとっては自分は天敵でしょう。
はい、責任の自覚。分かります。資本主義社会・社会主義国家に生きる合理主義者、権力者に近しいご意見の様ですが、心臓=機能=果たすべき責任がある=社会的国家的責任も付随するとみて当然だろう、という理屈でありますねw
責任を果たす、というより行使しつつ生きている、というお考え。うーん・・・ある意味理解できる感覚、なのですがそうであるならば我々の労働・消費・義務(に関する様々なオプションの中)には、無駄が多すぎると思えるようなものが、多々含まれているのではないかと私は主張したい。
9 時間前
責任と言う物は何かを任されるところで発生する。何の責任も無い、と言う事は信用も期待もされていないという事にほぼ等しく、あまり歓迎される状況ではない。民主主義においては主権者は国民であり、その当の本人が国のありように何の責任も持たず、誰かに委任したっきりで文句の一つすら言わないなら誰が政治をするのか。仕事として行政を行うプロ、官僚である。政治家は任期期間中いるだけの人でしかない。政治家を目立つ盾にして監視の目が全くない環境に居る官僚こそが現代日本をめちゃくちゃにしている主犯。
なんと三連ですwこの手のタイプが三度連続で、コメントを残したのを見たことが私は一度もないwヤフーコメント、ツイッター、フェイスブック、そしてYOUTUBEのコメント欄。面白いですー・・・w
この内容、凄い。レベルが1-2-3と上がっていく。責任と裁量の所在とは如何に。本当に、正しく定義しきれるものなのでしょうかね。また、万人の国民とそれを共有し合えるものなのでしょうかね。[政治]に限定するから分かりにくく、伝わりにくくなっているのかもしれません。
最後のコメントでようやく理解いたしました。彼の脳内、その考え方その尺度が。しかし彼の主張を全て鵜呑みにするのであれば、国民市民だけでなく、岸田首相や岸田首相以外の自民党議員、また他党の政治家、地方の市議会議員にも同じ「責任が無い」「果たしていない」という事が言えてしまうのであり、「日本人に責任を果たしている者は殆ど存在していない」と,極論そうなってしまうのでは・・・w
8 時間前
そもそも察しと思いやりが権力者にあれば民主主義なんて始まらんよ。
はいぃ。権力者にそれがある大前提で、多くの若者と高齢者が選挙に行きさえすれば、正しく国民市民の為に政策を執り行える政治家が一人一人と生じてきて、正しい結果に向かうという、当たり前が既に定義されていて然りというところから始まっているようなのですが、そうなっていない(実は真逆)から貧困層・貧困家庭・精神病患者・自殺者などが、事実発生しているわけなのですが。先進国の「あるべき国民(投票者)の責任」としても違うし、後進国の「あるべき国民(投票者)の無責任」としても違う(日本の場合)。そう感じる。
国民が政治に無関心だから政治が腐敗するのか、政治が国民に無関心だから腐敗しているのか、鶏が先か、卵が先か、という話ですねw
はい、面白い方でしたwこういう人、皆さん全くツッコミ入れたりいじったり、表面に引っ張り出したりしないので、僕は毎回「おかしいな」と思っていたのですよ。大昔からね。あ、ちなみに数割くらいなんですが、2010年代からこの手の発言をする人を自分は「自民党サポーター」「企業・経営者」ではないかなと、思っています。所詮勘ですが。
古くは明治時代から、日本の少数派・マイノリティー存在であったある思想家・合理主義者が国民・市民(の大多数であるかのように振舞いながら)と同化して、ごく自然に存在・主張展開しているという所に少し、違和感を感じていたんですよ。敵味方、で言えば皆さん確実に彼等を味方、愛国者として分類されるのでありましょうけど・・・。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は、終えてみれば「(国内の)哲学・思想ネタ」記事でしたw