人付き合いの話
私はある時まで、すごく人見知りだった。
誰からも愛されたかったからだ。
私は1人っ子で初孫で、兎に角愛されて育った。
誰に成長を虐げられることもなく、親類が集まれば皆が私に注目していた。
誕生日にはいつも大きなケーキとプレゼントを買ってもらった。
それは私の成長が親類皆の幸せだという象徴そのものだった。
私の両親は共働きで、同居する祖父母が私の面倒を見てくれていた。幼心ながらに「祖父母は私の面倒で大変だから迷惑をかけちゃいけない」「両親は忙しいから迷惑をかけちゃいけない」と思うような子どもだったし、両親も祖父母もある程度分別をつけて子育てをするタイプだったので、私はお金、時間、愛情を幸せと感じる以上には享受しなかった。
それは小学校に入学しても同様で、私は家族と同様に誰からも愛されたかったし、誰にも迷惑をかけたくなかった。間違えて人に嫌われるのが怖かったし、間違えて迷惑をかけるのが嫌だった。
転機は小学校5年生の時。
クラスにイジメがあった。私はイジメる側でもイジメられる側でもなく、それを見て助けたい、救いたい、イジメを無くしたいと思っていた。実際、イジメられた子と放課後に先生に「イジメがあるんです、やめさせてください」と掛け合ったこともある。
何とかしなきゃと思っていたのは、私だけでなく、一緒に登下校をしていた友人もそうだった。毎日の帰り道が話し合いになった。話が終わらない時はウチの近くで1時間も2時間も立ち話した。毎日モヤモヤするまま解散して、次の日の登校が来るのをただ待った。
イジメのターゲットが何回変わったか、先生が何回私たちのSOSを無視したか、そんな日の下校の時、友人がボソッと「みんな仲良くなんて、もう無理なのかもね。」と言った。私はそれが衝撃で、ショックで、悔しくて、でも全てが腑に落ちた気がして、家に帰って大泣きした。何の感情で泣いてるのか分からなかったけど、とにかく泣いた。大きな感情に突き動かされて、泣いたのはあれが最初で最後だと思う。2時間も3時間も泣いた。
それ以来、私は「誰からも嫌われたくない、誰からも愛されたい」と思うことはやめた。
「みんな仲良くなんて無理なんだ」と達観する子どもになった。
学校の先生は「みんなと仲良くしましょうね」という。
でも、クラスに三十数種類の個体がいて、それらすべてが好き同士の状態を創り上げるなんて無理だ。ましてや学年単位で考えたらもっと無理だ。先生はSOSに対応しないのに無責任なことを言う、と思った。反感を持った。
私は今教育学部に所属するが、もし仮に私が教師になったとて、そんな事を言う気はさらさらない。それが正しかったとしても、言葉にして教える必要は全くないと思う。
同時に人見知りも解けた。
「こう言ったら嫌われるかも」「こう言った方が良かったかも」と考え、落ち込むのは無駄なのだ。だって仲良くなれない人とは、仲良くなれない。その人とはもう、生まれた星が違うのだから足掻いたってしょうがない。嫌われる時は嫌われるだ。と思ったら、人見知る必要がなくなった。
私を見せて嫌われるのなら、人間関係はそこまでなのである。取り繕う必要もない。
今でもこの考え方は同じで、誰とでも仲良くなれるというのは綺麗事だと思っている。小学生の頃のあの経験で、苦いほど、痛いほど、現実を知った。
周りには「広く浅く、人脈が多い方がいい」「飲みは大人数の方が楽しい」という意見の下動いてる人もいるけれど、私は友達一人一人と密度の濃い時間を過ごしたい。
大学生という有限の時間と有限のお金を、好きな人と好きじゃない人に同じくらいずつ使うのなら、好きな人に2倍使ってあげたい、と思う。大好きな人たちと美味しいご飯を食べることが、私が一番幸せに感じる瞬間だ。
【ひとこと】
文字数だけは一丁前に稼げンのよ。
【次回予告】
次はもう少し深い愛情の話。
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