おすすめ本No.3 『山月記』中島敦
以前に「山月記」を読んだのは、高校の国語の授業の時間だったと思う。当時は何か感じ入ることもなく、「虎になってしまった男が旧友と再会し後悔を語る話」というザックリとしたあらすじと、「その声は、我が友、李徴子」というフレーズだけが頭に残った。
朝の読書の時間には、新しい本を開いてみることにしている。読んだことのないジャンルや作家の本を選ぶというルールにしており、過去に読んだことのある本は選ばない。けれど唯一の例外があって、授業で読んだことがあるだけの話は再読OKとしている(一度目は自らすすんで『摂取』したわけではないからだ)。
というわけで、ある朝Kindle Unlimitedにおすすめされるがまま、「山月記」を再読した。そして思った。これは高校生には刺さらないはずだよな、と。
刺さるといっても、昨今よく使われる「気に入る」というニュアンスではなく、文字通り、「先の尖ったものが突き立つ」という意味の、刺さる。要するにグサッとくる。
李徴の出奔の理由
主人公の李徴がある夜、発狂して出奔し、山の中をさまよい歩いていると、闇の中から自分を呼ぶ声があった。その声を追って走るうちに、気付けば李徴は虎になってしまっていた。山月記はそういうとんでもない話だ。
そもそも何故、李徴は出奔したのか(それも妻と子を放り出して)。
幼いころから優秀だった李徴は、詩人になりたかったが、師匠に教えを乞うといったような努力をしなかった。下手に努力をして、自分の才能のなさが露呈するのが嫌だったからだ。生活のため、下級役人の職についてはみたものの、かつて自分が見下していた旧友たちが自分より出世していることにも耐えられなかった。みじめで恥ずかしかった。
心の有様としての虎
結局のところ虎の姿とは、李徴自身の中に巣食う、自尊心と羞恥心の具現化なのだ。そしてそれを自分自身で御しきれなくなって、身も心も獣になってしまう。
ここまで読んで、ふと気が付く。李徴のような人間は世の中にいくらでもいることに。
実際の姿こそ虎になりはしないまでも、身の丈に合わない自尊心と羞恥心を御しきれなくなって、獣になる人はいる。他者を害しても、そこに何も感じないまでの獣に。
そこまで考えて、またあることに気が付く。
果たして、自分はそうなってはいないか。自覚がないだけで、獣になっているのではないか。そもそも、自覚がないということが、獣そのものである証なのではないか、と。
努力ができず、挫折すらまともにできずに、実力にそぐわない自尊心だけが体の中で暴れている大人にとって山月記は、単なるファンタジーではなくて耳の痛い話なのだ。
余談だが、動物の姿になってしまった男の話といえば、スタジオジブリの「紅の豚」がある(ジブリ作品の中で一番好きだ)。
「紅の豚」の主人公・ポルコが心に抱えているのは、空虚だと思う。戦争で同胞を失っても尚、自分だけがのうのうと生き続けて、理想もなくただ日々の生活のために飛行艇に乗り続けている、という空虚。それを抱えて、豚の姿になる。
人間というのは案外簡単に、心に抱えたものに似た獣の姿になってしまうものなのかもしれない。
Kindle Unlimitedでも読めます。
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