しがない音ゲー楽曲に救われた話
こんにちは、今回はまあまあ変な話です。
単刀直入に言うと「ある楽曲と出会ってなかったら精神が潰れてた」話です。
フィクションのようなノンフィクション、書き溜め。
いろいろ
私自身は特段ネックになるような環境はなかったです。
いじめとか、親との相性が悪いとか、貧乏とか、そういうのでは断じて。
ですが、生まれつき感覚が特殊だったんですよね。
後にASDと診断されましたが、重度の感覚過敏やネガティブな感情(悲しみ・怒り・不安)を避ける癖。
その上に俗世のいろいろに興味はなく、自分の世界に集中するのが楽しみな子。
その過程で出会ったのが「グルーヴコースター」
中学一年生の時に出会い、今までずっと推し続けているゲーム。
逆に言えば、この音ゲーのある楽曲が無ければ私はどこかで精神的に潰れていたかもしれない、と考える。
結論からいえばグルコス以外の生活はぼろぼろだった。
今となってはASD特性で説明がつく要因で様々な事を過剰に警戒し、人間関係も傍から見たら充実しているように見えて、一方的なものに出来上がってしまった。
学校の帰り道に泣いている事も多かった時期。
中学三年生の頃は母親のパニック障害が再発し、そこからよりネガティブなものに対して拒否感を抱くようになったと思う。
ただ、グルーヴコースターに触れている時は別。
今もそこまで上手いわけではないが、自分の世界に入り込み、マイペースに好きにやり続けた。
しかし、いろいろな人と関わる中で、グルコスの向き合い方自体も他の人よりも浮いていて、これまた自分の世界にのめり込むだけで十分な性質で、ネガティブなものに対しては異様に悲しくなったのかもしれない。
そんなふうにグルコスをプレイしていく中で、ある楽曲に対し、異常と呼べるほど惹かれるようになった。
プレイ、考察、創作、全てに多大なる影響を与えた曲と出会ってしまったのだ。
解釈……?
その曲に対するコメントは
「どうせ友達なんていないしさ。」
いわゆる「友達がいない」というテーマの曲だ。
私はこの意味をいろいろと考える。
諦め・失望・悲しみ・落胆の第一印象。
その友達は一体?遊べる相手、相談できる相手、安心できる相手、それとも社会的な概念か?
最終的に、どのような「ぼっち」なのだろうか。
言葉通りの深い意味のないぼっち。
内心では人を欲しいタイプのぼっち。
寂しいという気持ちが主な『孤独』なのだろうか。
友達は煩わしいと考える『孤高』なのだろうか。
いくつかの称号と、シンプルな譜面や演出、重厚ロックの音楽だけでは、残念ながら分からない。
逆に言えば、好きにこのぼっちを自分で解釈することができる。都合のいいように……と捉えられるものなのかもしれないが。
正直、いずれの解釈にしてもこの曲に無意識に助けられていたと思う。
いうなれば、曲の印象から生まれたキャラが、自分を導いてくれる存在となるような……(自分には、年上の内向思考・内向直観男性に捉えられた)
私と
私が、この曲と共調した部分があるとすれば。自分だけが浮いている世界でぼっちだったことか。
私よりももっと人間らしい感性と、感情に対する耐性や、感情を出せる勇気。そこから外れていると感じるなんとも主観的な孤独感。
音と光の集まりの、人間らしいとは言えない楽曲という概念が代弁する「ぼっち」に、私は癒しを感じていたのかもしれない。
この曲や、他の曲、グルーヴコースターやそこから生まれた想像の世界に引きこもる、孤独な私と通ずるものがあったのかもしれない。
もしも、この曲と出会えてなかったら。どこかで潰れていたかもしれない。
人と同じ感性を持てない自分を、主観的に恨んでいたのかもしれない。
そして
今の私は、信頼できる人も増え、自分なりに現実世界に地に足をつけれるようになってきた。
それと同時に、今までの私の感覚で悩まなくなり、ある意味自分勝手には生きていけるようにはなった。
それが、すべてこの曲のおかげとは言わないが。この曲が存在しなかったら見られなかった未来。
少なくとも主観的・直観的な感想はこうだ。
ありがとう
Just no friend/Shohei Tsuchiya(ZUNTATA)