人生ゲーム論を考える

いわゆるこういうやつ

人生はゲームであるとか、そういう人生までもがメタフィクションである的な方向の人生論は誰でも一度は考えるとおもう。
私は大方カントに賛成なので、こんな人間ごときに知りえないこと考えても分かるわけねえだろボケが、と思うのだが、こういう人間の悪あがきは嫌いじゃない。し、なにより考えていて、話していて楽しい。考えることの本質的な意味は解明ではなく快楽にある。解明こそが快楽なのかもしれないがね。──マイヨール (偉人の名言風)
仮に全て創作で、人生はゲームだとすると、創作者である神的な上位存在(以後神と呼ぶ)がいないと辻褄があわなくなるので、まあないだろうなと思う。神はいないと思っているから。神がいたとして、なぜこんなゲームを作ったのか、なんでこんなにつまらないのかという話になる。私たちが楽しむためとは考えずらいので、神の娯楽のためであろうという憶測ができる。私たちが3次元から2次元上の電子を操るように、神は高次元から私たちを操り人形のように動かしているかもしれない。2次元を操ってる私たちがいて、その3次元は高次元に、その高次元もさらなる高次元に…という無限に続くマトリョシカ的な構造になっているかも。私たちが操られているとすると、あらゆる行動の結果を神に責任転嫁できるからいい考え方かもしれないね。
ようは、人生ゲーム論において、ゲームをプレイしているのは一人称視点の私たちではなく、三人称視点(神視点)の神だと思うってこと。
とはいえ、クソゲーであることは変わらない。
しかし、少なくとも私はゲームのキャラクターが人生楽しそうかという観点でゲームを遊んだことは無い。そりゃあ、omoriとかアンテとかDDLCとかデトロイトとかそういうストーリー性の高い、感情描写が豊かな、誤解を恐れずに言えば「私たちの情に訴えてくる」物語ではそのキャラクターたちの心情を半ば強制的に考えされられるため、例外となる。
私が言っているのは、シュミレーションゲームとか、人と撃ち合うゲーム(TPS、FPS)とか。
シュミレーションゲームでは私たちは容易に非人道的なことができるし、FPSでは私たちはいちいち撃ち殺した相手を弔わない。殺されたやつのこととか、殺されたやつの家族のことを考えながらFPSをやっているやつはいない。私が操っている2次元のキャラクターはどうか知らないが。
「地球人生(仮)」(中華ゲーム臭がする)という神が遊んでいるゲームがシュミレーション系のゲームだとすれば、まぁクソゲーでも納得がいく。グラフィックだけは評価してやる。ただし、あまりに緻密な設定は退屈である。
あと、AIが自我を持ったらこの説に信憑性が増しそうだ。神は思考ができる人間を作り出す高度な技術を持っていたと考えられる。私たちは神になりつつある。
そして、人生がゲームだとすれば、哲学がどれほど馬鹿げているかの裏付けができる。冒頭にもあったカントの思想がそれだ。

人間の認識は、 経験できるこの世(現象界)のことに限られ、神や魂の不死など、この世を超えたこと や、事物そのもの(物自体)を認識することはできない。

カントの思想

終わって始めて完璧な俯瞰で物事を見れるのだから、私たちはいわば盲目の探鉱者である。
未クリアのゲームの考察を完璧にこなすことは基本的にできない、というのがなにより思考の無意味さを顕著に表していると思う。

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