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邯鄲の夢、春が死んだ夏のこと

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 数日前、あるSNSでフォローしていた人が亡くなったことを知った。

 私より5つばかり年上で、優しくて思いやりのある、穏やかな人だった。

 彼のことを知ったのは、私が高校2年生のときの11月だった。

 高2の夏休みから、現実逃避としてハマっていたSNSアプリ。

 そこでたまたま、あなたへのおすすめの項目で彼のアカウントを見つけた。

 そこにあったのは、何気ない日常と、自分自身の葛藤。

 彼は、持病もあって、精神的に不安定だった。

 だけど、自分のことと同じくらい、ほかの人のことも思いやることのできる人だった。

 もしくは、自分のこと以上に。


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 彼の声しか、私は知らない。

 弱々しくもあるけど、耳に心地よい、優しく透き通った声。丁寧でゆったりとした話し方。

 春の暖かな陽気、穏やかに晴れた空。

 私の中の彼は、そんなイメージだった。

 彼は、私が知る以前からずっと、自分自身の存在について、悩んでいた。
 
 自分がここにいることで、ほかの人に迷惑をかけているんじゃないか。

 だったら、自分はここにいない方がいい。
 いてはいけない。

 でも、自分はここにいたい。

 そんな彼の苦悩が、当時の私にはものすごく共感できた。

 というのも、青年期のまっただ中だった高校2年生の当時の私は、いわゆる「アイデンティティ拡散の危機」にあったからだ。

 自分自身の存在意義がわからない。

 わたしには、いったい、何ができるの?

 だれかに好きになってほしいくせに、自分はだれのことも好きになろうとしない。

 そんなわたしがここにいることで、ほかの人にメリットはあるだろうか?

 むしろ、わたしがここにいることは、ほかの人にとって、デメリットでしかないのではないか?

 そんな気持ちを、朝目覚めてから夜眠りにつくまで、毎日抱えたまま高校生活を送っていた。

 教室の中の、自分の席。これは、本当に必要?

 もしもわたしがいなくなれば、みんなはどう思うのかな?

 もちろん、悲しんでほしいけど、同時に……それが役に立てばいい。

 そんな思いが、頭の中をぐるぐると廻っていた。


 ***

 私は、無意識のうちに、彼自身に「高校2年生の自分」を重ねていた。

 3年生になって、私の精神状態が少し落ち着いてきた時期も、依然彼を高2の私と重ねていた。

 彼の話を聴くたび、私自身のことを話しているように思えた。

 彼によって、私の過去が浄化されていくように感じていた。

 彼と、過去のわたしとのシンパシー。

 いつしかそれが、私にとってのカタルシスとなっていた。


 その彼が、死んだ。

 病気の悪化が原因だった。

 24歳。あまりにも若すぎた。

 私の大好きな小説家の服部まゆみさんは、肺癌が原因で、58歳で亡くなった。

 高3のとき、現代文の授業で読んだ『檸檬』をきっかけに好きになった梶井基次郎さんは、肺結核が原因で、31歳で亡くなった。

 彼らの没年を知ったときも、かなりショックだった。

 でも、それよりも、ずっと若い。

 いまの、19歳の私より、たった5年間長く生きられただけ。


 彼の訃報は、彼の恋人によって投稿されていた。

 「病状の悪化により永眠致しました。」という文字の羅列が、心に冷たく貼り付いて、ひんやりとした空気が私に纏わりついている。


 ****

 もともと、そのSNSは、現実逃避でハマっていたとは言ったものの、そこまで頻繁にログインはしていなかった。

 ふとした瞬間に思い出して、彼のアカウントを覗きにいく。何か投稿されていれば、それを見たり聴いたりして、彼の日常を感じる。

 高3になって、行事や受験勉強などで忙しくなると、ログインする頻度はさらに低くなった。

 でも、ときどき、やはり覗きに行っては、彼が今もちゃんと生きているということを知って、ひそかに安心していた。

 大学に合格し、高校の卒業式が間近に迫っていた休みの期間に、数ヶ月ぶりに覗いてみた。

 今年の4月からは、あまり投稿しなくなるらしかった。

 私は、それでいいと思った。彼自身の身体と健康が1番大事だから。


 そして、大学生になって、一人暮らしが始まった。

 だれも私のことを知らない、私もだれのことも知らない、そんな街で新しい生活が始まった。

 今まで私を押さえつけていた鬱憤や陰鬱とした気持ちが一気に晴れて、心が満たされ、生活が充実していた。

 そして、そのSNSアプリを開くことも、めったになくなった。

 これは、高校2年生の当時の私が、現実逃避のために始めたもの。

 いまのわたしには、もう必要ない。

 おそらく自然と、そのような気持ちが芽生えたのだろう。

 最後に開いたのは、1ヶ月前か、2ヶ月前。

 彼は入院していて、危険な状態だったけど、なんとか復活できたらしかった。

 私はそれを見て安心したし、まだ彼が生きているなら大丈夫だと思った。

 そしてまたしばらく、閉じたままになった。


 しかし、先日の夜、なぜか急に彼のことを思い出したのだ。

 食器を洗っていたとき、ふと彼のことが、頭の中に浮かんできた。

 そういえば、彼、大丈夫かな。元気かな。

 そう思って、ベッドの上のスマホを手に取って、久しぶりにログインした。

 たった10時間前の、新規投稿。

 永眠致しました……病状の悪化により……2024年○月○日……

 文章が、文字が、ただの記号に見えた。

 でも、その意味を頭で理解した一瞬のうちに、心臓から全身にわたって、血の気が引いた。

 おかしなことに、自分の脳みそが、「あ、いま私、血の気がひいてる」と言った。

 次に両手が震えてきて、中途半端にベッドに腰掛けた状態の身体を動かすことができなかった。


 *****

 彼のことが大好きで、私よりも毎日彼のことを思って、彼を励ますメッセージや元気づけるような言葉を贈っていた人々はたくさんいた。

 そのような人々からの追悼の言葉と、今まで元気をくれてありがとうというお礼、彼の恋人に向けたポジティブな励ましのメッセージ。

 私は上の空で、だけど必死に頭で読もうとして、スクロールを続けた。

 私は一人暮らしで、部屋には自分以外に誰もいないはずなのに、トイレに駆け込んでいた。

 思い返せば、高校生のとき、私はいつもそこで気持ちを落ち着かせていた。

 ほかに誰も入ってくることのない、自分だけの空間。それが、当時の私には、トイレの個室しかなかった。

 学校では、クラスメートや多くの生徒がいる。
 家にいても、家族がいる。

 自分を周囲から切り離したいとき、完全に一人になれる空間はそこだけだった。

 たぶん、そのときの記憶が、無意識に身体を動かしたのだと思う。

 私は、数ヶ月ぶりに、めちゃくちゃに泣いた。

 ここまで泣いたのは、私の精神がまだ改善する以前の、高校3年生のときだ。

 いつも、ネガティブな感情の連鎖に陥って、発作のように泣いていた。

 自分自身に対する怒りや悔しさ、劣等感、自己嫌悪。周囲に対する嫉妬、苛立ち、疎外感。

 叫ぶように声を上げて泣いたこともあれば、激しくむせび泣いたこともあった。

 私は、自分のことでしか泣けない人だと思っていた。

 だって、自分のことだけで精いっぱいだったから。

 だけど……死ぬ直前の、彼自身や彼の恋人の気持ちは、どれほど辛いものだったかと思うと、堪えられなかった。


 ******

 私は、キリスト教の方針の大学に通っている。

 十字を切って、祈りを捧げた。

 彼の、天国での幸福と、来世での成就。

 神様、どうか彼が、天の国と、そしてその後の来世では、今までよりも苦しみや悲しみのない、幸せな生活ができますように。

 そして、彼の恋人の心に、傷が深く残りませんように。

 それから、「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」の『Komm, süsser Tod』を聴き、J.S.バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』を聴いた。

 これらの曲はいずれも、私が高校時代に毎日のように聴いていた曲だ。

 『Komm, süsser Tod』は、高1の9月から、卒業式の前日まで、ほぼ毎日。

 『主よ、人の望みの喜びよ』は、高3の、共通テストが終わった辺りから。

 始まりと終わりは、同じところにある……。

 未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。

 まだ生きることについて知らないのに、どうして死ぬことについて知るだろうか、いや、知らない。

 朝生暮死、生者必滅。一切衆生悉有仏性。

 年齢は、関係ない。生き者は、いずれ必ず死にいたる。 

 万物は流転する。輪廻の輪をくぐり、生まれ変わる準備をする。

 それは、次の人生を迎えるためには必要で、大切なこと。

 だから……死ぬことは、必ずしも悲しむべきことではない。

 それに、私たちが生きているあいだは、死というものは存在しない。

 あるものはあり、ないものはない。

 死んでしまったら、私たちはもう存在しない。

 だから、死を恐れる必要はないのだ。

 でも……、こんな言葉をしきりに並べたって、きっと、この理屈は、いまこの瞬間の私たちには通用しない。


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 その夜は、当然、眠れそうになかった。次の日は大学の授業がなかったので、気持ちがある程度落ち着くまで起きていようと思った。

 締め切りが近づいていた課題をやりながら、はじめしゃちょーさんの動画を観たり、スマホゲームでログインボーナスをもらったり。

 それから、伸びていた爪を切った。

 単調な作業の中、また、彼のことを思い出して、じんわりと涙が滲んできた。

 彼の優しい声が、頭の中で鮮明によみがえる。

 そういえば、私が彼のことを知った当時、彼も大学生だったっけ。

 大学生。高校生のとき、はやくなりたかった。

 はやく解放されたかった。

 この「解放」とは、「高校を卒業して、大学生になること」なのか、「現世を諦めて、死を期待すること」なのか、そのどちらなのかは自分でも分からなかった。

 私は、高校の3年間で痛いほどに味わってきた、苦しかったこと、辛かったこと、嫌だったこと、悩んでいたことを、実家の自分の部屋の中にすべて捨ててきたつもりだった。

 過去に執着していた私が、過去を捨てる覚悟をしなければならない、愛別離苦。

 どれだけ嫌いな自分でも、受け入れなければならない、怨憎会苦。

 周囲からの承認と、自分に対する自信がほしい、求不得苦。

 ひどい偏頭痛もちで、身体が思い通りに動かない、五蘊盛苦。

 それらすべてを、使っていた大量の教科書やノートと一緒に、箱に詰めて、クローゼットの中に押し込んで、最後に「さようなら」と言って、部屋を出た。

 これで、私は過去を捨てることができたつもりだった。

 でも、実際は、完全に捨てきれていなかった。

 私がいくら過去の私たちを忘れようとしても、彼女たちは私の中で永遠に生き続ける。

 それは私だけじゃないし、これからもそうだ。


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 彼に癒されたり、心を救われたりした人はたくさんいる。

 みんなのメッセージをちゃんと読みたいけど、読んでいるうちにまた気持ちがぐちゃぐちゃになってしまうから、全部は読めない。

 私は、彼の顔も、彼の過去も、どこで何をして暮らしていたのかも、なにも知らない。

 彼が投稿していた、声だけの動画と短い文章。それだけでしか、彼の存在を感じることができなかった。

 そんな私でさえ、こんなに寂しくて悲しいのなら、彼の恋人や友人はどれほどか、想像もつかない。

 数日経った今でも、心の中で、何とも言い表せない感情が、ざわざわとうごめいている。

 もし、この文章をスマートフォンではなくて、紙に鉛筆で書いていたとしたら、紙が濡れてよれよれになってしまって、まともに字が書けなかったと思う。

 書きながら、何度も泣いたから。


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 今まで愛読してきた本や、出会ってきた作品の中には、死に関する言葉がたくさん出てきた。

 さらに、死について深く考えた、多くの哲学者たちの思想。

 彼らは、自分自身や、自分の考えたことを強く信じて生きていた。

 たとえそれが、自分以外のほかの人にとっては間違ったものであったとしても。


 生と死の価値観も、美醜の善悪も、さまざまだ。

 大切なのは、いま、ここにいるわたし自身を、大切にすること。

 自分の中の大切なものを、手放してしまわないこと。

 自分自身の存在を、忘れてしまわないこと。

 それが、私たちにとって、私たち自身を守るために必要なことなんだと、私は思う。


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 彼も、過去の私も、今はもう、ここにはいない。

 私が自分の中で、高校生のわたし自身を重ねていた彼は、亡くなった。

 高校生のわたしも、もうとっくにいないはずだ。

 彼の肉体は灰になったし、過去の私の身体は、いまの私の身体へと変わった。

 彼や過去の私は、もうどこにもいない。


 だけど、私の中では、彼らの魂は生きて、息をしている。

 彼の場合は、私の中でだけじゃなくて、彼を好きでいたみんなの中でも。

 魂は、死なない。

 魂が消えることは、決してない。

 死とは、あくまでも、肉体の死。

 生き者の完全の死というものは、存在しない。

 だから、悲しんでもいいのは、彼の身体がなくなってしまったことに対してだけ。


 でも、本当は……まだ、彼の肉体の死を受け入れられていない。

 実は、彼の身体もまだ生きていて、息をしているのではないか。

 私たちが勝手に死んだと思い込んでいるだけで、彼はまだ、生きているのではないか。

 夢をみているような感覚だった。


 でも、やっぱり、彼の死は、ほんとうだ。


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 私は、いま、ここにいる。

 私は、ここにいてもいいんだ。

 過去の自分を否定することは、いまの自分を否定することにつながる。

 過去もいまも受けとめて、たとえそれが自分にとって、満足のいくようなものじゃなくても。

 まずは自分自身を好きになって、それから、自分の周りの人々を愛することが大切なんだと思う。


 だから、私には、彼らが必要なんだ。


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 Take care of yourself, goodbye.

 I need you.

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 サムネイルの花は、私が2024年7月23日に撮影したニチニチソウです。
 花言葉は、『楽しい思い出』。


 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 私はこの夏の日に起きたことを忘れない。





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