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設定の多い自己紹介

みなさんはじめまして。
大谷まいと申します。
愛知県で夫と二人暮らしをしている30代前半女性。
2024年1月からヨガインストラクターを始めました。

平日は週5で事務の派遣社員、日曜日はヨガレッスンをしています。
このnoteではわたしのうまくいかないヨガの仕事のことやらなんやら、いろいろ記録していこうと思います。

まず今回は、人生を振り返りながら自己紹介。


実家がスポーツジム

わたしは岐阜県美濃加茂市という人口5万人ほどの小さい町に生まれました。
その頃祖父が美濃加茂市で縫製工場の社長をしており、わたしの両親も経営を手伝っていました。
そして小学生のころ、その祖父の工場を父が建物だけ引き継ぎ、スポーツジムを始めました。
カツ丼屋にしようか、スポーツジムにしようかの二択だったそうです。

みなさんのおうちの周りには、家族経営のこじんまりしたスポーツジムってありますでしょうか?
わたしの周りでは「うち自営業でスポーツジムやってる!」という人は聞いたことがありません。
「実家がスポーツジム」。
我ながらお気に入りの設定です。

芸能人にならないと人生失敗

小さいころから謎の人生観がありました。
それは「芸能人にならないと人生失敗」というもの。
なぜそんな偏りまくった価値観が芽生えたのか全くわかりませんが、当時のわたしは信じて疑っていませんでした。

ただ、小学生時代は習い事に忙殺、中学高校は部活の日々。
心の中では”芸能の仕事”に憧れていたけど、挑戦する暇はありませんでした。
それと勇気もなかった。
「本当にやりたいことを言ったらクラスの子に笑われる・・・」
「わたしみたいな男子みたいな女子が目指すところじゃない・・・」
「でも早くしないと人生失敗しちゃう・・・」
そればっかり考えていました。

やがて芸能人に夢見るスポーツ少女は憧れを捨てきれないまま、女子大生になります。
部活から解放され、岐阜県の田舎から名古屋へ通う毎日。
日焼けで真っ黒だった肌も白さを取り戻してきて、見た目もまともになってきました。



今だ。

あらゆる芸能事務所のオーディションに応募しました。
モデル、タレント、女優、、、、、
最終的に合格をもらえたのは、名古屋のアイドル一期生のオーディションでした。


地下アイドルになったよ

「地下アイドル」という言葉を、当時は知りませんでした。
テレビや雑誌に出たり、大きい会場でライブをしたりする売れてるアイドルに対して、小さくて暗いライブハウスでライブばかりしているのが地下アイドル。

わたしは19歳のころ、晴れて地下アイドルになりました。

歌って、踊って、遠征もして、楽しかった。
ライブもメンバーも好きだった。

でも両親からめちゃくちゃ反対されていました。
それとめちゃくちゃお金がなかった。

  • 悪徳事務所だった為、月2万円を社長に支払わなけばいけなかった。

  • 不人気メンバーだったのでアイドルとしての収入が少なかった。


レッスン費という名目で徴収されていた2万円は、ダンスの先生のお給料ではなく別のものに使われてたと後から聞きました。
当時のわたしはレッスン費を払っているが故に、交通費がなくなりレッスンに行けないというトンチキな状況になっていました。

そもそも、両親に反対されるって分かっていたんです。
比較的厳しい家だったので。
分かっていたから、酔っ払った父に同意書を書かせて勝手に始めました。(最低)
事務所とは半年ごと契約更新だったので、同じ手は使えず、未成年のわたしはこうして地下アイドルを続けていけなくなりました。

活動歴1年ほどで、地下アイドルユニットを脱退しました。

(成人したあと、親に秘密で活動を再開し、結局メンバーの不仲でユニットが解散した話はまた今度。)


写真の人間役を始めた

アイドルをやめたあと、カメラを趣味にもつ友達がよく写真を撮ってくれました。
そこから縁が広がり、いろんな人に撮ってもらえるようになりました。
「被写体モデル」というやつです。
とくに売れてるわけでもないパッとしない存在でしたが、撮ってくれた方には今でも感謝しています。
美容師さんの撮影モデルやコンテストモデルもちょいちょいやりながら、なんやかんや大学を卒業し、なんやかんや就職

・・・しませんでした。

「一つの会社に魂を売りたくない」(中二感)と思っていたので、名古屋パルコのお店でフリーターを始めました。
フリーターをしながら写真にうつる活動は続けて、7年くらいは続いたと思います。



とりあえず、今日のところはここまでにしておきます。
東京で警察沙汰になり岐阜県に帰ってきたり、結婚できない自分に絶望したり・・・このへんの話はまた今度



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