諦めるを諦めないために
心を開く
何でも話せる
自分がそうなる時とならない時について、何だろうとずっと思ってきた。
昨年まで2年ほど私はカウンセリングを受けていた。
私は自分がどう生きたいのか、何がしたいのかを模索していたが(今もだけど)、その事に向き合おうとすると何とも苦しくなる。
その苦しさが何だかわからなく、途方に暮れていたし、そのことを誰にどう受け止めて貰えばいいかもわからなかった。
コーチングを学んだ流れもあって、コーチを探してはいたが、わかってもらえる気がしなかったし、コーチを困らせるだけとも思っていた。
そんなところに、とある縁のあったカウンセラーの方が私の急所を心得ていると思い、セッションをお願いしたのだった。
この人は私の根本的な部分、何を見るべきか、どこに対峙するべきかを知っている、そう思ったのだった。
が、しかし、結局のところ、私はその先生を前にすると、いつも何を話したらいいかわからなかった。
ちっとも自分の心が開くのを感じられない。
なぜ?なぜ?
やっと自分の一番大切なことに向き合う覚悟でお願いしたのに。
そして結局、実際は他の要因もあったのだが、カウンセリングは終えた。
一方で、コーチ仲間には、会えばいくらでも話が出てきて、聞いてもらいたいと思える人もいる。
安心安全を感じるってこういうことだよなー。
そういう人たちといるとそう思う。
でもそれは無意識によるもの。
それは無意識が勝手にそうなるから、自分ではコントロールできない。
無意識は自分の安全な場所を知っている。
意識下の私よりも。
そう思っていた。
そんなところ、昨年から私が気に入っている心理学者で心理士の東畑さんの本を読んでいて、急に自分ごとに感じたことがあった。
この自分をちゃんと開けない感覚、それは母に対するもの、夫に対するものも同じだということ。
信頼してるし、大切に思っているのに、本当のそのまんまの自分が思っていることを話すのが、なんだか怖い。
わかってもらえないように感じてしまう。
どうしてそう思うのかわからないけど、酷く勇気がいる。怖い。
自分の中でこれは大丈夫としたものだけを表現している、そんな感覚がある。
その先には進もうとしない。
ここまで、と境界線があるような。
子供の頃の私が寂しかったから。
母が忙しくて、甘える時間がなかったから。
そういうことができなかったから。
自分で思い当たるのはそういうことだけど。
何でも話せる友人たちは、もちろんそれはそれでいい。
でも大事な人の前で話せない自分。
結局は母にどこまで素直に曝け出せるかなのだろうか。
母や夫に引っ込めてしまうことをほんの少しでも、出してみる。
そういう練習をしてみたら良いのだろうか。
何を引っ込めているのかを自覚することからかもしれないけれど。
母も夫もちゃんと話ができる相手なのだ。
それは知っているのだ。
私が諦めていたものは、決して得られないものではないのではないか。
勝手に諦めていただけで。
諦めているつもりなんてなかったけど、実際は実は諦めている。
でも諦める必要なんて本当はハナからない。
知らず知らずに実は諦めていることっていっぱいあって、
でもそれは自分の思い込みでしかない。
諦めるを諦めないへ。
そっちに行ってみよう。