歩く速さは生きる速さ?
まがいもののみつをみたいな題を付してしまった。
急いで歩くのはあんまり得意ではない。というより、自分としては普通に歩いているつもりでも実は遅かった、という衝撃。もともとのんびりした性格なのもあって、徒歩に限らず、かなりスピーディに済ませてみるとまあまあ人並みでした、みたいな結果になる。かなしくもうれしくもないけれど事実。
歩く速さにデフォルトのものがあるとして、でもそれは環境によってかなり変わるのではないだろうか。
中高生のころの放課後は部活終わりにダラダラ歩いて帰るのが定番、なんなら途中のちょっとひらけたところでたむろして喋って解散する、というのが多かったから、夕暮れどきの徒歩速度はけっこう遅かったと思う。
大学生になって一人暮らしを始めたのが京都の地。振り返ってみると、京都はすべてがはんなりのほほんごゆっくり、という感じで統一されているわけではなく、すんごいのんびりさんもすんごいせかせかさんも同時に存在している雰囲気があった。いや、そんなのどこでもそうやん、と言われたら、うまく説明できないのですが……いろんな速度の人が互いに染まらず、うまいこと避けながら進んでいる感じ? わたしはもちろんゆっくり側だったんだけど、死ぬ気で急いだのなんて、運転免許の実技試験当日の教習所行きバスに乗り遅れそうになったときくらいかもしれない。人生の本気度よ……。
大学を卒業して都心に引っ越すと、またガラッと変わる。あのときの徒歩スピードはわたし史上最速だったと断言できる。まず通勤ラッシュのなかでいかに列車に身をすべりこませられるか、朝ギリギリまで寝ていたい人間からすると毎日決死の戦いである。退勤のときはもう疲れてとぼとぼ歩きたいのはやまやまだけれど、それよりも早く家に着きたい。信号が変わりそうになったら頑張って走ってヘトヘト、何をそんなにすり減らして働かねばならんのか、わからないまま帰宅したものだ。
エスカレーターの左側はいつも立ち止まる人がきっちりと詰め込まれ、右をふんすかふんすか息を切らして登りつめるのは、電車があと1分で発車するときのわたしとその他似たような境遇の人たち。京都ではそのへんが曖昧なので右に左に人がぽこぽこいたのが不思議だった。うっかり駆け上がると古都の魔物ちゃんかだれかに突き落とされるのか? 山口では止まる人は関東と同じく左側だし、大阪や兵庫では右側。この違いを研究されてるレポートとかありますかね。めちゃくちゃ気になってきた。
いちど関東生活を経て関西に戻ってくると、なんとなくだけれど、人の歩みにゆとりがある気がする。少なくともわたしの歩いたことのある東京神奈川エリアと、京神エリアとでは、自分自身の歩く速度にずいぶんと差があるように感じる。気持ちの問題かもしれないし、ひょっとすると足の長さが……え~~~~!!!(突然のオカルト)
ただ人混みをある程度経験すると、人の避け方がだんだん身についてくるのがわりと面白い。脳の意識だけでは習得できないような、まさに身体感覚で学んでいく感じ? まあたまに失敗して、ぶつかっちゃうとすごくこわい舌打ちをされることもあるんですけど、その人の手に取ったお惣菜がほかのパックよりもいちばんショボくてそれに気づかないまま食べちゃいますように!とささやかに願っておくので大丈夫です。