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書きたい、とか色々

書いた文章や自分の思考を公開すること、共有することは、承認欲求と自己顕示欲の顕れではないか。
多くの人に公開することで、「note好き!」と言ってくれる人に出会える一方で、こんな考えの人、もしくは、そもそも公開していること自体気に食わないと思われる可能性も高まる。

とにかく外界との関わりを楽しんでいた1.2年前。
人や社会と関わることで広がる世界に毎日心を踊らせていた。

「素直であること」「正直であること」が正しいと信じて疑わなかった。
本音を言うことが正しくて、受け止め方は受け手次第だと。
誰もが平等に、本音の受け手になるのだから、そこは割り切ればいいと。

多少、青臭くたって、若いのだから、多めに見てくれと。
ダサくて、青臭いことを自覚しながらも、そんなことを気にするよりも、“行動”や“挑戦”することのほうがよっぽど大切だから、目を瞑っていた。


といった大学1.2年生期間を経て、自分のレンズから見る解像度がほんの少し高まった気がする。
過去のnoteを見れば、共感性羞恥心で脳みそから記憶を掻き消したくなるし、
過去の行動や言動を思い出せば、とんがってたなぁと恥ずかしくなる。

(本当は、「こうやって過去の自分からこんなに変化しました」という書き方しかできず、「あの頃は未熟だったよね」なんて、ありきたりな言葉しか出てこない自分も恥ずかしいです。いつかは、こういう感情をかっこよく書ける文章力を獲得したいね。)

とまぁ、薄っぺらい言葉ですが、色々と変化したわけよ。
なんでも他人と共有したいと思っていた私も、自分の中だけで何かを大切にするという受け止め方を学習したの。

んで、問題はここからで、自分の考えなんて、自分の中で大切にしておけばいいじゃないかと思う反面、やはりnoteという形にしたい気持ちもある。

小説家さんたちのハッとさせられる言葉に日々触れているのに、なぜ自分から出てくる言葉はこんなに薄っぺらいのか。
1.2年前の自分とはだいぶ変わったと言いつつ、結局、noteを公開するようでは、自分の根っこの承認欲求や自己顕示欲は変わっていないではないか。
でも、それが単純な承認欲求や自己顕示欲ではない気もする。自己表現をするという活動は、私にどんな影響をもたらしているのか。

そんなこんなで、葛藤している。

言葉にするのは素敵だからいいと思うよ!とか、
やらない後悔よりやった後悔!なーんて言って励ましてくれる人がたとえいたとして、
そういうことじゃないんだよな〜と思ってしまう私は、友達が減っていくでしょう。

何が書きたかったかって、文章が書きたい、書いた文章を共有したい、ということです。

今も昔も変わらないのは、こうやって、悩んで葛藤しているから、
深夜に勢いで書いた文章を公開することしかできないということ。

もっと気軽に文章を書きたいけれど、それでは、これまでと変わらないではないか。と。思ったり。思わなかったり。


9月の目標は、「好きなもの・人を大切にする」でした。
10月の目標は、「自分の感受性を大切にする」。
(今の私には、“目標”という言葉すら、重い。目標というか、大切にしたいこと、かな。そのままですね。漢字が持つ美しさが大好きであるという前提のもと、それとは別の指標として、すべてのことばをひらがなでかけるような、まるくておだやかなこころのいまがここちいい)

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