「教える人」は教育に必須ではない。
今日もお読みいただきありがとうございます。
フォルケ学園長の眞山です。
さて、2020年4月からプログラミング教育が必修化されました。
…が、コロナの影響で色々変化がありそうですね。やれやれ。
小学校での英語教育や、
今回のプログラミング教育などで毎度のように取りざたされるのが、
「教える人の養成」です。
子どもたちにプログラミングを学ばせるには、
まず大人がプログラミングに詳しくならなければならないということなのですが、
大人を育てる→子どもを育てる
この順番が非常に効率性が低い。
学校の先生たちはただでさえ忙しいのに、
やらなければならない事が日に日に増えていきます。
教えることもそうですし、気にかけなければいけないことも
この10年ほどでずいぶん増えました。
・いじめや不登校の問題
・家庭内暴力の問題
・発達障害の問題
・給食とアレルギーの問題
・性の多様性の問題
学校の先生には立派な人が多いですが、それでも聖人君子じゃありません。
彼らにさらに「プログラミングもできるようになれ」というのは
色々な意味で無理があります。
いっぽうで、
プログラミング教育のコンテンツは、ネットの社会には
「無料で」、しかも「たくさん」転がっています。
…だから、先生ができるようになる必要なんて、ないのです。
子どもたちに自由に学ばせればいい。
そして、子どもたち同士で教えあう空気を作ればいい。
これはプログラミングに限った話ではありません。
・算数の応用問題の教えあい
・図画工作の教えあい
・二重とびの教えあい
…子どもたちにその権限を委譲すれば、彼らの学びの幅は無限大になっていきます。
ちなみに冒頭の画像は、子どもが折ってくれた「始祖鳥」と、折り鶴です。
折り鶴はともかく、始祖鳥をお手本を見ずに折る大人なんてほとんどいないでしょう。
でも、子どもは勝手に身に着けていくし、身に着けたことを自慢げに教えてくれるようになっていくのです。
逆に、それさえできればチームワークもおのずと育つわけで、
「道徳科」という不思議な教科は、そもそも必要なかったんじゃないかと思います。