年齢制限とシスターと生臭坊主
学園長を務めさせていただいているフォルケ学園のモットーは、これだ。
「大人の学びを子どもにも。子どもの学びを大人にも。」
それを具現化しているものの例をいくつか挙げるとすれば、
・公立小中学校向けに提供してきたプレゼンテーションの授業
・高校生向けに開発した経営シミュレーションゲーム
・経理の方々向けに収録した「算数」の授業
…などがある。
もちろん、子ども向けの学び(学習塾)も、大人向けの学び(コーチングやコンサルティング)も、普通に提供したうえでのことだ。
ともあれ、学びに年齢制限はない。
どんなに若くても「使っちゃいけない漢字」なんてないし、どんなに年齢を重ねてからも「今さら聞けない」なんてないと思っている。
いま自分がUoPeopleに籍を置いていることを大っぴらにしているのは、教育事業を手掛ける人間が、自ら学び続ける姿勢を崩さないという意志の表れでもある。いや、意志の表れというとちょっと語弊があるか。意志が弱い人間だからこそ宣言して自分を縛りたいという気持ちのほうが近い。
教師は五者たれ、という格言がある。
順不同かも知れないが思い出す順に書いておく。また、個々の「○者」に対する解釈は完全に独自のもので何のオーソライズも無いことを付言しておく。
学者…自分自身が学びを続ける存在であること。特に教える領域については専門性を磨き続けること。
役者…役割を演じることができること。時には知っている役を、また、時には知らない役を。
医者…学び手がどこでつまずいているのかを診断できること。「肝臓先生」のように自分の知っているものにこじつけないこと。
易者…占い師のように未来(特に、将来子どもがどんな能力を開花させるか)を言い当てることができること。
芸者…楽しませることができる能力を持っていること。学びを楽しいものに替えられること。
この「五者」を兼ね備えるのは、どう考えても一筋縄ではないが、だからこそ学び続けることが大事なのだ、と思う。
しかし、それは大抵、年齢を重ねるほどに難しくなる。
フィードバックを受け取る自分に、どうしても意固地なところが出てくる。積み重ねたことへの自負もあるし、「お前が言うな」と若者に言いたくなる気持ちも湧く。しかし、どう考えてもこれからの人生では自分より年上の人が減り続け、年下の人は増え続けるのだ。
かたや、フィードバックをする側にしても、相手が目上・年上だと気後れする。ダメ出しする時にどうしてもオブラートに包むことが増える。オブラートだけなら効果が減らないのでいいが、「言うのやめとこう」というところまで気遣いが及ぶとなると、フィードバックする意味もなくなる。
謙虚でいつづけることは難しい。僕などのような自意識過剰の人間にとっては、余計そうだ。
名古屋市のとある小学校でプレゼンテーションの授業を終えた後、いつも通り、現職教育と呼ばれる先生方向けの講義をさせていただいた。その日の帰り際に一人の女教師に言われた言葉を、僕はきっと一生忘れることは無いだろう。
「眞山さんに教えてもらえたことが、教師になって良かったと思えることの一つになりました。ありがとうございました。」
その先生は、その2カ月後に定年退職した。
この言葉が忘れられないと思う理由は、思い出すごとにその言葉の持つ凄さを思い知るからである。
子どもたち、つまり自分よりずーっと年下の人間の相手ばかりしている仕事であるがゆえに、教師の方々は上から目線を持ちがちだと言われる。ぶっちゃけ、そういう先生を山ほど見てきた(ついでに言うと、そのつど「ああ、自分と同じ匂いがするな」と思っていた。笑)。
が、くだんの先生からはそんなものを微塵も感じたことがなかった。年を重ねるごとに神への敬虔さを増していくシスターのようだ。
まさか僕が今までの教師人生で一番の「師」だなんてことはあり得ない。つまり、あの先生はどんな人を相手にしても、同じ姿勢でいる、ということなのだろう。
…果たして、自分も20年後同じことを、同じくらい謙虚な気持ちで言えるだろうか?たぶん、キャラ的に不可能だとは思っている。どちらかというとジジイになるにつれてどんどん生臭みを増すほうの僧侶だ。
あれ?
何でこんなこと書こうとしたんだっけな…忘れた。