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僕が「継続は力なり」をさほど真に受けていない理由。

今日もお読みいただきありがとうございます。
フォルケ学園の眞山です。

英語日記を2週間ちょっと続けてきて、継続は力なりということわざをContinuity is Powerと訳しているのを見つけたら、流石にそりゃおかしいわ…と気づけるくらいにはなってきました。

英語で言うなら、おそらくRome was not built in a day.とでも言っておいた方が通りが良いんじゃないですかね…(なお冒頭の画像はAdobeのサービスで見つけたものです)。

さて、そんな「継続は力なり」ということわざを座右の銘にしている方は多いと思いますが、今日はこのことわざが持つ少し危ない面をいくつか指摘しておこうと思います。

理由① 手段の目的化を助長する

公認会計士になってから、会計の学校でチューターをしていた時にたまに聞かれたのが「どうやったら1日10時間勉強できるんですか」という質問だったのですが、そういう時は、Quoraで回答したようなことを教えていました。

1日10時間勉強するという目安がよく引き合いに出されるのは、大学受験や難関資格試験がそれだけ範囲が広くて学ぶことが多いからであって、そのことを分かっていれば「自分がどれくらい勉強する必要があるか」は見えてくるものなのです。

逆に、それが見えていないのに10時間勉強しようとすると、無駄に時間のかかる方法を選んだりしがちで、逆効果。そういう時に教条的に「継続は力なり」を信じ込んでいると、自分が間違った方法を継続してしまっていることに意識が向かないこともあり得ます。

…ちなみに、僕は英語日記を書くとき、躊躇せずに翻訳ソフトを使いまくっています。今時、翻訳ソフトを駆使しないで英作文をすることは、Excelがあるのに筆算で集計をするくらいのムダがあると思っています。「継続は力なり」という言葉からは、そういう意義ある手抜きを許さない風潮を勝手に感じてしまうのです。

理由② 継続して得られるものは多くの場合「予想外」である

子どものころ、僕は父から言われて「なわとび1000回」を日課にしていました。肥満児で運動神経の鈍かった僕が少しでも体力をつけてほしいという願いがあったのだろうと思います。

しかし、あの辛い日々から僕が得た物は、体力ではなく「教えることの面白さ」でした。

毎日なわとびをしていたら年下の子たちが「教えて」と集まるようになり、いつしかなわとび教室と化してしまったため、自分が1000回跳ぶどころではなくなり、そして父もその流れは「まあいいか」と思っていたようです。余談ですが、彼らの多くはあっという間に僕よりも長く跳べるようになり、なんとなく「教育って先生を超えさせてナンボなんだ」みたいなことを思ったのもこの頃です。

継続することで得るものは、実は当初期待したものとは限らない。逆に言うと、「継続は力なり」に過度に期待することは、後でがっかりする結果になることも多いです。

理由③ 振り返ってみたら続いていたものこそ「力」に変わっている

この3つ目の理由は「結局継続は力なんじゃねぇか!」というツッコミを覚悟で書きます。

自分が10年以上続けることができたものを挙げるとしたら、書くこと、教えること、趣味のサックスくらいです。そしてこれらは自分に厳しい日課を課してまで継続したものではなく、自分が没頭してしまっているだけでした。

ということは「継続しなきゃ」と思って物事を続けるのではなく、そこそこ生きてみて振り返った時に自分が飽きずに続けてきたことが、結果的に血肉になっていることのほうが、多いんじゃないかと。


…と、ここまで書くと「うちの子は飽きっぽいから続けることを学んでほしいんです」とか「そうはいっても眞山さん英語めんどくさがりながらも続けてるじゃないですか」とか、色々なツッコミや疑問があると思うのですが、ちょっと長くなってきたのでそれは別の記事で書こうかと思います。

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