東京ばな奈との、埋めがたき距離
こないだ新幹線に乗る前に、ふつーのキオスクに入って口寂しさの埋め合わせを探していて、ふと「東京バナナって、食べたことない」と思って買って、車内で食べた。(今タイプして初めて意識したけど、「東京ばな奈」なんですね正式表記。意味わからん) ふつうにおいしかったけど、まあ、ふつうではあった。やはりお土産というのはその土地への思い入れも込みで価値なので、東京のことをなんとも思っていない東京都民が食べても、ふつうなんだよなと思う。
目黒に住んでいるときに、歩いて5分のところにCLASKAという、知る人ぞ知るリノベーションデザインホテルがあって、引っ越して間もないころに散歩に行って見つけて、なんて洒落てるんだと思った。初一人暮らしの目黒で、23区にはこういう文化があるのかと「これがTOKYOで一人暮らしするってことかあああ」と思い、『外国人のモデルがここに泊まって、レンタサイクルで目黒川沿いを走り、中目黒まで行き…』みたいな、あえての都心部じゃないTOKYOの楽しみ方みたいなものが紹介されていて、いいなあこういう一日、って思ったのもつかの間、いや歩いて5分のところに住んでるじゃんってなるわけです。最近だとMUJI HOTELにも近い感覚を抱いた。帰って寝ればタダなのに、そこから5分のところに数万円払うほど、体験にお金を投じるということに振り切れていない自分を、残念に思う一方、まともな感覚でよし、とほめてみたりする。
実家が田舎、ということもなく、神奈川と千葉に祖父母が住んでいて、「お盆に帰省」という言葉に妙にうらやましさを感じたりするのも、そういえば夏。東京モノライフだと、それはそれでこういう、小さな寂しさみたいなのはそれはそれである。人間ないものねだりの無限ループの中で生きていくのが背負った業というものなので、あきらめてはいるし、全然結局、恵まれている。どうしたって最後は、置かれた境遇で自分のハッピーなスタイルをあれやこれや時間の使い方の試行錯誤を繰り返しながら模索していくしかないのだからね。今世は、東京ばな奈をおいしく食べることは諦めるとする。