【SS】封じ込めた香り
包丁を軽快にならす音がキッチンに響かせ、わけもなくキャベツのみじん切りをする。二人暮らしとはいえ、一玉買ってどうしようと言うのか。消費できるのか。最初は不揃いで下手くそだったみじん切りも、半玉を超えたあたりから、綺麗な細い線たちが生まれていく。
ザクザクと刻んでいく音を聞いていると、不思議と心が落ち着いてくるのだ。佑介がみたらきっと「何週間分あるの?」と聞いてくる気がする。
まあ、全てのおかずにキャベツを入れてしまえば、消費できるだろう。私の中でいくつかレシピを思い浮かべながら、残りのキャベツを刻み進めた。
同棲している佑介は、フリーランスで音楽家をやっている。私は音楽の知識もないから、彼の音楽についてもあまりわからない。音楽家という呼び方も正しいのかどう分からない。
音楽をやっている人に限らないと思うが創作をしている人というのは、生活リズムも狂いがちだった。最後に一緒に食事を取ったのはいつだっただろうか。山盛りに盛られたキャベツをタッパーに移し、冷蔵庫に詰め込んだ。時計は夜の八時を回っていた。
しかし、食事を一緒に取ってくれないというのは、初めてのことだ。
元々、愛情表現をしっかりする人ではなかった。けど、節々でのやりとりで大事にされているというのは感じていた。それで安心をしていたのに、こんな風にやりとりができなくなる瞬間が不安で仕方がない。
本当は、今すぐにでも彼の部屋に行って会いに行きたい。けれど、きっと曲を作る時の世界が彼の中にあるはずで、その世界に私が入ってもいいのだろうか。そんな思考が私の中で回り続ける。
いつも、彼は部屋を暗くして、小さな電球を一つだけつけて作業をしている。顔はいつも暗闇に隠れてしまい、手元しか見えない。イヤホンをつけて作業をする彼には、いったいどんな世界が見えているのだろう。
彼の作る世界は、私からは見えないし、聴こえない。同じイヤホンをつけたとしても、きっと同じ世界をみることなんてできない。それが、時折無性に寂しくて仕方ない。
そんな思考回路をぶち破られるかのように、突然携帯の音がなる。母親からの着信だった。気だるくなりながらも、画面をタップする。
「あなた、最近どうなの」
「何が」
「例の彼よ。最近どうなのよ」
「別に」
定期的な確認電話だ。私の年齢を案じて今後を気にしているのだろうが、余計なお世話だと思う。まだ、彼を両親に会わせてもいなかった。
「私、別に結婚がしたくて付き合ってるわけじゃない」
「じゃあ、なんで同居なんかしてるのよ」
それは、と言いかけて、私は言葉が詰まってしまった。前まではもっとすらすら言葉が出てきた気がするのに。
「もういい年なんだから、少しは考えなさいよ」
そう言われて電話を切られた。
「私だって、考えてるよ」
思わず口から出た言葉が、手に持ったスマホを重くさせた。
気がつけば、私はソファーで数時間ほど意識を飛ばしていた。時計を見ると深夜2時を指しており、部屋の電気も消えている。
仕事終わってすぐの帰宅だったため、仕事着のままだし、化粧も落としていない。やってしまったと思い、項垂れる。明日もまた仕事なのに、最近少し悩みすぎてしまったのかもしれない。
洗面所に向かおうと体を起こした時、キッチンの方で電気がついているのに気がついた。そっとキッチンに向かうと、氷の軽やかな音が部屋に響く。
「あれ、起きた?」
心なしかすっきりした祐介が、キッチンに立っていた。
「なにしてるの?」
「封じ込めてんの」
手元に目をやって、彼はふっと笑った。透明なガラスの容器に、黒い艶のある液体が並々と入っている。
「アイスコーヒー?」
蓋をされた容器に詰められたアイスコーヒー。氷で急激にひやされたせいか、ガラスが汗をかいていた。
「封じ込めてるって何をよ」
「うーん、なんだろ。わかんないけど、なんか残したかった」
そこで私は、終わったんだな、と思った。祐介はグラスを二つ取り出し、それぞれに半分くらいの量を注いだ。無言で私にグラスを渡すと、彼は一人で静かにコーヒーを飲み出した。私も同じようにグラスに口をつける。
苦い。アイスコーヒーは風味を残すために濃く入れて、その後蓋をすると何かが閉じ込められてる感じがする、と彼はよく言っていた。今日飲むコーヒーは特に苦い気がする。苦味が鼻に抜けて、香りを全身で感じる。
「封じ込まれてるね」
私はつい口から言葉をこぼした。
「だろぉ」
ちょっと誇らしげな顔で彼は笑った。釣られて私も笑う。
「明日は、味噌汁のみたいなあ」
「じゃあ、キャベツたっぷりの味噌汁を作るよ」
味噌汁にキャベツ?と目を丸くする彼を横目に、私はもう一度コーヒーの香りを楽しんだ。