雪降る卓の灯り
雀荘「風鈴」は街の喧騒から少し外れた路地裏にある。古びた看板の灯りが雪の中でぼんやりと滲み、窓越しに見える暖かな光が、どこか懐かしい安らぎを感じさせる。
その夜、外では雪がしんしんと降り続けていた。クリスマスイブ。街はイルミネーションに彩られ、笑い声や祝福があふれている。それでも、この小さな雀荘だけは、煌めく世界から切り離されたように静かだった。
中では、牌を混ぜる音が響いている。
65歳の佐伯。古びた灰皿に煙草をもみ消し、しわがれた手で新しい一本を取り出す。彼の眼差しは、卓を挟む若者たちを見守るようでいて、どこか遠い過去を懐かしんでいるようだった。
20歳のユウキ。大学生とはいえ、どこか投げやりな雰囲気が漂う。軽く乱れた髪と無精ひげの跡が、彼の曖昧な生活を物語るようだ。それでも、彼の指先が牌に触れるときだけは、その動きに微かな躊躇いと熱が混じる。
38歳の健二。乱れたネクタイを締め直すこともなく、卓に置かれたコーヒーカップに目を落としている。サラリーマンとしての肩書きを失い、家族にも背を向けられた彼にとって、この場所だけが自分を許してくれる場所だった。
そのとき、扉がかすかに軋む音を立てた。
吹き込んだ冷たい風と一緒に、一人の青年が中に入ってきた。
「すみません、少しだけ……ここで打たせてもらえませんか。」
青年の声には、冷え切った体と心の奥深くに眠る震えが滲んでいた。彼の肩には雪が薄く積もり、少し濡れた髪がそのままになっている。
卓を囲む全員が、一瞬だけ手を止めた。
不意に訪れた異邦人――その青年が運んできた「違和感」に、雀荘の空気がわずかに揺らいだ。
優斗は卓につくと、ぎこちなく牌を握りしめた。その様子を見ていた佐伯が、煙草を口にくわえたままニヤリと笑った。
「若造、打ち方くらい知ってんのか?」
「……少しだけ、父に教えてもらったことがあって。」
不器用にそう答える優斗の手元には、小さな袋に包まれた古びた牌が置かれていた。その袋を開ける仕草は慎重すぎるほどで、彼がそれをどう扱うべきか悩んでいるのが伝わってくる。
「なんだ、それ?」健二がふと目を止めた。
ユウキが少し身を乗り出して茶化すように言った。「お守りかよ。それで勝てるなら俺も欲しいな。」
優斗は一瞬ためらった。手のひらに牌を収めるように持ち直すと、小さな声で答えた。
「……母の形見なんです。」
その一言に、卓の空気が少しだけ変わった。
「形見……?」ユウキが眉を寄せる。
「はい。」優斗の声は静かだった。「母は麻雀が好きで……病気になる前、この牌をいつも持っていました。でも、なんでこんなに大事にしてたのか、僕には分からなくて……。」
彼の声がか細く消えていく。言葉の裏には、母を知りきれなかった後悔と、自分がその意味を追い求めている孤独がにじんでいた。
卓上に静けさが広がった。誰もが牌に手を伸ばすことをためらうように、少しだけ目を伏せた。
「それで、ここに来たのか。」健二がぽつりと呟いた。その言葉はまるで、優斗自身ではなく、彼の背中を押してきたものに向けられたようだった。
ゲームが始まった。優斗の手元には、ぎこちない動きが続いていた。牌を握る指先に迷いが見え、時折、次の一手に悩んで立ち止まる。
卓を囲む常連たちは、その様子を黙って見守っていた。
ユウキが、ほんの少し口角を上げながら呟いた。「今のは、ちょっと惜しいな。」
健二は視線を牌に落としたまま静かに言った。「焦らなくていい。ゆっくり考えろ。」
佐伯は小さく鼻を鳴らし、牌を卓に置いた。その音は軽く、穏やかだった。
「まあ、今のうちに失敗しとくのも悪くねえさ。」
彼の言葉には、どこか懐かしさが滲んでいた。それは叱責ではなく、自分もかつて迷いながら卓を囲んでいた頃の記憶を呼び起こしたかのような響きだった。
優斗は小さく頷き、再び牌に手を伸ばした。ぎこちないながらも、一打一打に真剣さがにじむ。その様子を見て、佐伯が微かに頷きながら牌を切った。
卓の上には静かなリズムが流れていた。牌が捨てられ、積み上がるごとに、少しずつ場の空気が形を変えていく。
麻美はカウンターの向こうからその様子を見つめていたが、ふと目を留めた。優斗の手元に置かれた小さな袋。そこから少しだけ覗いていた古びた牌が、卓の灯りを反射して微かに光った。
彼女は一瞬その光に目を奪われたが、すぐに視線をそらした。雀荘では様々な物語が生まれる。牌を手にした者たちが、それぞれの思いや記憶を卓の上に重ねていく。しかし、その夜に漂う空気には、言葉では説明しきれない何かが混じっている気がした。
優斗が袋の牌をそっと取り出し、手元に置いた。彼はそれに触れることはなく、ただそばに置くだけだった。
その牌の欠けた角を見た瞬間、麻美の記憶が遅れて反応した。
「……それ。」
麻美の声が静かに響いた。彼女はカウンターを出て、卓のそばに近づく。その目は牌に釘付けだった。
「その牌、昔……この雀荘で使われてたものよ。傷がついて処分するはずの牌。あなたが息子さん?」
卓の空気が止まった。ユウキが不思議そうに牌を見つめ、健二は眉間にしわを寄せて麻美の言葉を待っている。
麻美は少し声を落としながら語った。牌を見つめる彼女の表情には、懐かしさと驚きが混じっていた。
「昔、この雀荘によく来てくれていたのよ。明るくて優しい人だった。」
麻美はふと遠くを見るような目をして続けた。
「しばらくここに来られなくなるって言って、最後に捨てるなら欲しいって、この牌を持ち帰ったの。『ずっと手元に置いておきたい』って。」
卓を囲む全員が静まり返り、優斗はその言葉を一つ一つ受け止めるように耳を傾けていた。
「そして、それを今、あなたが持っているのね……。」
麻美の声には驚きと確信が混ざっていた。形見の牌が、母の過去と優斗の現在を静かにつないでいた。
優斗は驚きながらも、目をそらすことなく麻美の言葉を聞いていた。形見の牌が、母の過去と自分を結びつけるとは思いもしなかったのだ。
麻美は牌をじっと見つめたまま、小さく息を吸い込んだ。
「お母さん……由美さん、よね?」
優斗は驚いたように顔を上げた。
麻美は微笑みながら頷いた。
「よく覚えてるわ。この雀荘にとても明るい風を吹き込んでくれた方だったもの。」
彼女はそっと牌を卓に戻し、遠くを見るような目で語り始めた。
「お母さん、『ここに来ると、なんだか肩の力が抜ける』って。仕事帰りによく顔を出して、みんなを笑わせていたわ。」
麻美の声には、懐かしさと温かさがにじんでいた。
「彼女は、牌を混ぜる手つきも綺麗でね。それでいて、勝っても負けても変わらない人だった。いつも笑顔で、『楽しいからいいの』って。」
ユウキと健二も、麻美の言葉に耳を傾けていた。
麻美はふと、優斗を見つめた。
「でもね、お母さん……あなたの話を本当に嬉しそうにしていたわ。」
優斗が少し驚いたように目を見開く。
「僕の話を?」
「ええ。『息子が学校で絵を描いて賞を取ったんですよ』とか、『一緒に作ったカレーが意外に美味しくてびっくりした』とか、ね。」
麻美は少し笑いながら続けた。
「とにかく、あなたのことを話しているときが一番幸せそうだったわ。」
優斗の胸の奥に、何か温かいものが広がるのを感じた。それは、母親の思いを形にしたような感覚だった。
麻美は、卓に置かれた牌に目を戻し、静かに話を続けた。
「こう言っていたのを覚えてるわ。『この牌、捨てるくらいなら私にください』って。」
麻美は微笑みながら、そのときの光景を思い返すように語った。
「私が『どうしてそんなに欲しいの?』って聞いたらね、彼女、少しだけ考えてこう言ったの。『なんとなく、この牌にはまだ仕事がある気がするのよ』って。」
その言葉に、優斗は自然と牌に目を落とした。その欠けた角が、母の思い出と今をつないでいるように見えた。
「それで、彼女はこの牌を大事に持ち帰っていった。『手元に置いておけば、いつか役に立つかもしれない』ってね。」
麻美の声には懐かしさが滲んでいた。
卓を囲む全員が静まり返り、その場の空気がいつの間にか変わっているのを感じた。
優斗はその言葉の意味を反芻しながら、小さく呟いた。
「母はそんなこと言っていたんですね……この牌に何かを託したのかな。」
麻美は優しく頷いた。
「きっとそうよ。母親の勘ってやつかもしれないけどね。」
彼女の声に優しさが込められているのを感じた優斗は、牌をそっと手に取り、そのひんやりとした感触を確かめるように握りしめた。
最後の局面。優斗の手が形見の牌をそっと握りしめた。その感触は冷たいはずなのに、指先には母の記憶が溶け込んでいくような温もりを感じた。
静かに深呼吸をし、彼は牌を切った。
ツモ牌を引くその瞬間、卓の上の空気がわずかに震えるような感覚がした。
「ツモ。」
優斗の声は小さかったが、その響きは卓を囲む全員の心に静かに届いた。その瞬間、彼の前に並べられた牌が完成する。
佐伯がじっと牌を見つめ、そして小さく頷いた。
「そいつは……お前だけじゃなくて、お前の母ちゃんのツモでもあるな。」
その言葉に優斗は少し驚いたように顔を上げたが、やがて静かに微笑んだ。母親がかつてここで何を思い、何を感じていたのか――その片鱗にようやく触れられた気がした。
卓を囲む全員が何も言わず、ただその和了を見つめていた。そこにあったのは、勝ち負けを超えた「つながり」だった。
静寂の中で、牌を通じて交わされた無言の感情が、卓を囲む全員の心に刻み込まれていた。
ゲームが終わり、卓の上には静けさが戻った。優斗は形見の牌をそっと拾い上げ、それを手のひらに包み込むように握りしめた。その感触には不思議な重みがあり、同時にどこか安らぎを感じた。
窓の外では雪が静かに降り続けている。冷たさを感じる景色の中で、雀荘「風鈴」の中だけが、まるで時間が止まったような温かな空気に包まれていた。
優斗は、そっと卓を見渡した。健二が静かに湯気の立つコーヒーをすすり、ユウキが指先で牌を並べ直している。佐伯の目が卓の上の牌に向けられていたが、その視線はどこか遠くを見つめているようだった。
「母も……こんなふうに卓を囲んで、みなさんと打ってたんですね。」
優斗の小さな声に、麻美が微笑んで頷いた。
「そうよ。彼女は、ここでたくさんの絆を作っていったの。笑顔で、楽しそうに。」
佐伯が牌を軽く触れながら、ぽつりと言った。
「麻雀てのは、人が集まるきっかけだ。それだけで十分価値がある。」
優斗はその言葉にじっと耳を傾けた。母親がここでどれだけの時間を過ごし、どれだけの絆を築いたのか――その片鱗を感じ取ろうとしているようだった。
「だけど、その先が大事なんだよ。集まっただけじゃ終わらない。そいつを続けていくのが、面白いところなんだ。」
佐伯が深く息を吐き、静かに続けた。
「そして、お前もその続きを打つんだ。」
その言葉には重みがあった。それは、母親が雀荘で築いた絆やつながりが、息子である優斗のつながりへと受け継がれていくものだった。
優斗は牌を見つめながら、小さく頷いた。そして少し照れたように口を開いた。
「あの……また、ここに来てもいいですか?」
佐伯は優斗の言葉に一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに微笑んだ。
「当たり前だ。ここはお前の母ちゃんの場所だったんだ。それに――今はお前の場所だ。」
優斗はその言葉に静かに頷き、牌を袋に戻した。
牌の並びが崩され、健二が軽く頷きながら牌山を整える。
ユウキは椅子を引き寄せながら、わずかに口元を緩めた。卓に戻る準備をするその仕草は、無言の中にもどこか期待感を漂わせていた。
佐伯がゆっくりと牌を混ぜ始める。その音が卓の上で軽やかに響き、さっきまで漂っていた静寂を少しずつ解いていく。リズミカルなその音には、また新しい物語が始まる予感が込められているようだった。
卓を囲む全員が、それぞれの思いを胸に牌に手を伸ばす。雪の降る外の静けさとは対照的に、雀荘の中には温かな時間が流れ始めていた。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。無音の白い世界が広がり、その静けさが街を優しく包み込んでいる。
雀荘「風鈴」の窓から漏れる灯りが、その雪景色に淡い輝きを添えていた。
優斗は牌を袋にそっと戻し、卓の上を見渡した。その視線の先には、母が愛し、自分もまた新たにつながりを見つけた場所があった。
そのとき、ふと耳を澄ますと、風鈴の音が微かに響いてきたような気がした。外には風もないのに、雪の中を揺らめくように鳴るその音は、静寂を裂くのではなく、溶け込むように温かかった。
その音は、牌が卓に触れる軽やかな響きと重なり、まるでここに集う人々の絆を語るように優しく響いていた。
外では雪がしんしんと降り積もっていく。その静かな白さの中で、風鈴の音だけがどこまでも続いていくようだった。
雀荘「風鈴」――ここは、雪と鈴の音が出会い、人々の物語が紡がれる場所だ。牌の音とともに、また新しいつながりが静かに始まっていく。