【麻雀諺】四面楚歌も一閃(いっせん)の和了(あがり)
麻雀という遊戯は、どうしても理(ことわり)を超えた「不思議」と隣り合わせだ。
夏の盛りの夜、汗ばむ肌を扇風機の風がかすめる中、私は友人たちと深夜の雀荘にこもっていた。
卓を囲む者たちの表情は真剣そのもの。牌を打つ音だけが空気を切り裂く。
私はというと、手配がどうにも乱れていた。
刻一刻と追い詰められ、牌を見つめても和了(あがり)の光は見えない。
立直(リーチ)を掛けるには遠く、点棒も心細い。
それでも、とにかく場を流すために、意味もなく牌を切り捨てていた。
「ここまでか…」と、内心で諦めかけたその時、対座する友人が「リーチ」と告げる。
張りつめた静けさの中、誰もが神経を研ぎ澄ませている。
私の手の内はどう見ても、和了れそうにない。
自分の無力さに歯噛みするばかりだった。
だが、三巡ほど過ぎ、何の期待もせず引いた牌が、
奇跡的に最後の和了を決する一枚だった。
まるで稲妻が闇夜を裂くように、私の胸を鋭い衝撃が貫いた。
「まさか…」と、誰かが呟く。
あの瞬間の感覚を言葉にすることは難しい。
ただ、雀卓の上で感じたその一瞬の高揚は、今も鮮やかに脳裏に刻まれている。
麻雀という遊戯には、計算や理屈では語り尽くせぬ「不思議」が潜んでいる。
確かに、技巧や経験が勝敗を左右することも多い。
だが、同時に、運命の気まぐれがもたらす予測不能な展開が、いつでも私たちを惹きつける。
絶望的な状況においても、一筋の光明を信じること。
牌を握る手を止めず、逆境を受け入れたその者にこそ、運命の和了が訪れる。
「四面楚歌も一閃の和了」。
この一言には、麻雀の真髄が凝縮されている。
不利な場面を恐れず、状況がどうであれ淡々と牌を打ち続けること。
それが、麻雀の魅力であり、やめられない理由なのだ。
理を超えた不思議にこそ、麻雀の奥深さが宿る。
夜も更け、窓の外では街のざわめきが徐々に静まっていく。
雀荘の薄暗い照明の下で、私たちは次の局に備える。
心の中では、まだ先ほどの一瞬の光がちらついていた。
あの奇跡の和了が、卓を囲む意味を改めて教えてくれたように思う。
不思議で理屈に収まらぬ遊戯だからこそ、私たちはまた明日も、この席に戻るだろう。
結果を求めるのではなく、運命を味わうために。