「麻雀」はとても運がいいコンテンツである
よくアスリートの人たちが、その現役を終え、第2の人生に向かうとき、現役の延長線上の職に就くことがある。これは恵まれたこと。一方で、今までのアスリートの活動は過去のこととし、全く違う第二の人生に向かうこともある。
私の第二の麻雀人生のひとつとして、公共施設で行われている健康麻雀を支援している。
主催をしている方が運営を行う。しかし、麻雀の運営は難しいもので、運営の助言と今までの麻雀の経験から、麻雀の先生として活動している。プロである以上、ボランティアというわけには行かないが、たいした金額をもらっていないことも確か。近年の健康麻雀のひろがりを手助けすることは、麻雀に携わったものとして、恩返しになると思っている。
恩返しということを考えると、今まで麻雀に恩を受けているという事である。
そんな事を考えている、麻雀の時代の流れやその中にいたことを感じる。今回は特に私が入っていった競技麻雀と流行について、知っていることと体験していることを書いていこう。
まず、当たり前だが、麻雀は中国から輸入されたものである。
中国から入ってきた麻雀は、最初の頃は文化人、立場の高い人の高貴な遊びとしてもてはやされたという。しかし、麻雀は一般大衆の中にも大いにもてはやされた。これが第一次の麻雀流行期だと思っている。この時代は私は聞いた話だけである。
それから麻雀のプロ団体ができた。プロ団体が多くできているのは私から見てもプロレスの黄金時代に似ているように思う。この前後が第二次麻雀流行期といえば良いだろう。ここからは私も関わっていて、アマチュア活動として競技麻雀に参加し、日本プロ麻雀連盟ができる時には小島武夫に声をかけてもらってプロになっている。
日本プロ麻雀連盟はとても良い団体だと思う。例えば、私が関わるところでは地方に力を入れてくれたこと。名古屋から東京に出ている私からしてみればとてもありがたい麻雀の普及活動であり、人材発掘もできたと思っている。
しかし第二次麻雀流行期が終わった後は麻雀業界は悪い時代が続いていたと私は思っている。この悪い時代に頑張っていたのは連盟の中では小島武夫、灘麻太郎の先輩方、そして、同期、後輩達である。
「みんなの活動は並大抵の努力ではないな」
と渦中にいる中で感じていることである。
もちろん、私も名古屋から東京を行き来し、また名古屋でもプロ活動をしたり、雀荘経営をすることで麻雀業界を支えた側であると自負している。
しかし、この逆風の中でも感じることは「麻雀」というものがとても大きな運を持っていたことだ。廃れた業界のことを考えると、業界の大きな努力に「麻雀」と「大きな運」が答えてくれたのだと思っている。
その努力に答えてくれた大きな運の1つは、大企業のゲームメーカーが麻雀に着目してくれたことだ。麻雀というコンテンツをゲームセンターで遊ぶことができる。人がインターネットを通して繋がり麻雀をしている。これで新たなファンを獲得できた。このゲームメーカーの参入は私の中では第三次麻雀流行期だと考えている。
そして、麻雀の対局を簡単に見ることができるようになった映像チャンネルの普及は第四次麻雀流行期となっている。これは皆さんの方がより感じていることだろう。
これらの競技麻雀を普及させた日本プロ麻雀連盟や他の団体が鎬を削ったこと、とても大変な努力した上で、麻雀が時代の流れにうまく乗ったのだと思っている。
こうして文字で競技麻雀を振り返り、その中にいた事を考えていると
「私も歳をとったな、もういいか」
という声が私の頭の中で響いてくる。
「もう十分にやっただろう」
という声も響いてくる。
第二次流行期はもう50年ほど前の話である。よくやったなと思うが褒めてくれる人は他にいないので、自分で褒めている。
しかし、わたしはまだやり残したことがある。
ひとつは麻雀の普及活動は続行中である。
もうひとつは麻雀が好きになり始めた人に麻雀にこだわらない居心地のいい場所づくりをしたいと思っている。できれば、専用の箱があるといい。その箱の中で、私の余生を楽しみ、もう一つやりたい事をやろうと思う。
準備は始めている。