古川孝次のことを書いてみたくなった
画家は時々自画像を描いている。
自分自身を見つめ直すのか定かではないが、私も自家像を文字で書いてみよう。
私は小さい時はなるべく目立たない様な地味な性格であった。引っ込み的な気持ちが勝っていた。だが、自身としてはおっちょこちょいな性格で、時たま自己アピールしたがるタイプ。我ながら不思議だと思っているが、私が例えば麻雀プロにように勝ち負けを競うようなことをしていることに驚いている。人の頂点に立つとか、人を負かすということには当時、興味がなかった。
小さい時に私は人と争うということが好きではなかったのである。
中学からは少し変わる。言い合いになって殴り合いの喧嘩になったことがある。そういう時代である。とはいえ、最初はお互いに1回だけ。というのも私が殴った時に相手のメガネが吹き飛んでしまい、それどころではなくなったのである。
高校の時にも喧嘩はした。確か初めは冗談で水をかけあっていったのだが、その度合いがエスカレートして相手がびしょびしょになってしまった。相手は冗談とは思えなくなってしまい、殴り合いが始まる。その時は相手の腕力が上回り、降参ということで終わる…はずだったのだが、私の殴られた姿を見た高校の番長が
「相手は誰だ、俺が仕返しをしてやる」
と言ったところで反対して、本当の終わりになった。
殴り合いの喧嘩はそれ以降、やったことがない。
私は弱いとい自分で自己決着をつけたのである。私の体で相手を負かす腕力も体力もないことをに悟ったのである。
今では考えられないと思うが、私たちの時代、男は腕力に自信があれば、殴り合いが花道というように殴り合いを好む人もいたのである。
「実力を認めてほしい」
というのは男に限った話かと思っていたが、存在意義や自己主張ということをよくよく考えれば人間はみんなそうなのかな?と思う。
自己主張は父に対しても向けていたと思う。
兄は出来が良く、父から誉められていたのを不満に思っていたのがあって、オチャらけてみんなの気を引いたことを覚えている。私が悪いことをした時、ある人が
「この子の前で兄のことを誉めることをしないほうが良い」
と父に言っていたことを思い出す。
一方で、父は私の欲しいものを全て買ってくれていたことを思い出す。
兄と同じ野球のバットとグローブが欲しいと買ってくれと駄々をこねて買ってもらったことは今でも覚えている。それは私が社会人になっても続けてくれた。本当は父も大変だったであろうことが分かっていた時にも続けてしまっていた。お金でかなう夢ならば、叶えてくれた。
親父は
「2番ではダメだ。1番にならなくてはいけない」
という言葉をもらっている。私が麻雀大会で1番になった時には、私には何も言わなかったが、どこかで自慢していたという話を聞いていた。
その父が入院し、見舞いに行った時の話も思い出す。
確か父をトイレに連れて行く時に廊下で歩きながらポツリと一言
「お前に俺の寿命を短くされたよ」
と。私は何も言い返せなかった。
そして、私は父が死んだ年を超えた。老人になった。後何年生きられるか知らないが、私の人生、学生時代はデザイナーと思ったのだが、なぜか麻雀プロに。不思議と言えば不思議。どう考えても繋がるものではない。
勝負の世界で人生を終えるのをなんだかなぁと最近特に考える。
違う世界を見てみたいと思う。例えば、美大の経験を活かして絵を描いてみようとか。しかしきちんとした絵が描けるかどうかは最近になって不安になってきた。不安な理由はきちんとした絵を描こうと思うからだろう。だから、なんでもいいから自分が描きたいものを描けばいいと思うようになったのである。