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【シコイチ】軽率にママチャリで四国一周した話13(最終話)

最終日開始

早めの朝食を終え、午前6時過ぎに出発しました。宿の夫婦が見送ってくれて、ぼくらは整列してお礼を言いました。走り出したぼくらの眼前には、昨日までの嵐が嘘のような、まさに台風一過と形容したい青空が広がっていました。まだ波の高い太平洋を左に眺めながら、一列になってママチャリを漕ぎます。もう逃げることもないと判断したのか、軍曹はぼくに構うことなく先頭を走っていました。

丸一日以上乗ってなかったママチャリは妙に新鮮で、十分休息を取ったためか、ペダルを回す脚も軽く感じました。アップダウンを越えて、いくつかの小さな集落を過ぎると、いよいよ高知県に入りました。ああ、やっと高知かと思いましたが、まだ高知市内までは丸一日かかるので、喜びはさほど感じませんでした。県境を示す看板の下で小休止をして、集合写真を撮りました。宿を出てからまだ1時間半ほどです。このペースなら夕方までにはゴールできそうだと軍曹が言いました。

波の高い海岸でサーフィンに興じる人たちを横目に、ぼくらは黙々と自転車を走らせました。相変わらず軍曹が先頭で、それぞれ5メートルから10メートルの間隔で、ぼくらが続きます。宿を出た時からぼくは最後尾を走っていました。風はまだ強く、時々突風も襲ってきますが、どういう訳か吹いてくる向きが一定ではなく、向かい風となって苦労することもあれば、追い風になって楽になる時もありました。

9時を過ぎた辺りから、太平洋に太陽が反射して今日も暑くなるんだと実感できました。ただ快晴の下で自転車を漕ぐのは心地よく感じました。自転車に乗るのが気持ち良いなんて、この四国一周で初めての感情だと気づきました。

またマシントラブル

出発してから4時間ほど快適に走っていたのですが、それは突然訪れました。金属を叩くような音がした瞬間、ペダルが急に軽くなったのです。軽くなったというか、空回りを始めたというのが正確な表現でした。何だ?と思って確認すると、チェーンが切れていました。

マジかよ?と思いながら自転車から降りて確認すると、チェーンの繋ぎ目が壊れたようで、見た瞬間、工具も代替部品もない状況では、どうにもならないことが分かりました。ちょうど前方に大きなカーブがあり、ぼくの前を走っていたドイくんの背中が、山の向こうに消えていくところでした。

携帯は持っていませんし、公衆電話もありそうにない場所です。よしんばあったとしても、軍曹の連絡先など知りませんでした。立ち止まっていると、それまで気にもならなかった波の音が聞こえてきました。どうすれば良いのか解決策も浮かばず、途方に暮れます。ぼくがついてきていないのが分かれば、誰かが戻ってくるだろうと思ったのですが、そんな気配もありませんでした。

15分ほどその場で待ちましたが、誰もやって来そうにはないので、ママチャリを押して歩き始めました。自転車屋があるのは何キロ先なのか、何十キロ先なのか、見当も付きませんでしたが、ここに留まっていても仕方ないと判断したのです。左手に見える太平洋からは波の音が、右手に迫っている山からは蝉の声が降ってきました。自転車に乗っている時は風を受けていたのでそれほど出なかったのに、押し始めた途端、玉のような汗が頭から顔に流れ落ちてきました。

やっとカーブに辿り着いたのですが、数百メートル先にまたカーブがあり、誰の姿も見えませんでした。国道だというのに車もまったく走っていないので、世界がぼくだけを残して滅んだような想像をして失笑しました。見える範囲に建物は皆無で、二車線の国道ギリギリまで迫った山と、どこまでも青い海と空があるだけでした。海ってこんな色なんだと、生まれて初めて思いました。

途中の集落で支給されたペットボトルのお茶は、もう半分くらいになっていました。遙か先に国道の続きが見えますが、そこまでの間に町があるようには思えません。人がいる場所、公衆電話がある場所までは、少なくとも数時間歩くようでした。

いい加減ぼくがいないことに気づいている筈なのに、なぜ誰も戻ってこないのか苛立ちました。愛媛県や香川県なら、これ幸いと電車に乗って逃げられたのですが、こんな場所ではどうにもなりません。山に沿っていた鉄道は途中の町で終わったようで、公共交通は何もありませんでした。先日の自転車屋で店員さんが言った「四国を一周するなら、ここから先が一番しんどくて、でも絶景の場所だ」って言葉を思い出しました。

地獄に仏

自転車というのは乗っている時は快適なのですが、押して歩くとなると、急に荷物感が増すなと気づきました。30分ほど歩き続けた時、やっと軽トラが一台ぼくを追い越していきました。国道なのに本当に交通量ないんだなと、通り過ぎるテールランプを見送っていると、少し先で車は停車しました。

止まった車からおじさんが降りてこちらに向かって歩いてきました。「どいたぜ?」と声を掛けられたのですが、正直嬉しさよりも困惑の方を感じました。高知に来てまだ数年なので、中年以上の人が喋る土佐弁が理解できなかったのです。さすがにこの状況なので「どいたぜ?」が「どうしたんだ?」って意味なのは分かりましたが、上手くコミュニケーションをはかる自信はありませんでした。

「たまるか!ちゃがまったかよ?」と、文字興ししたら完全に外国語に聞こえる言葉でおじさんは話し掛けます。日に焼けた笑顔は、悪い人ではなさそうでした。「たまるか!ちゃがまったかよ?」は、Oh my god! Was it broken?って意味だと思いました。おじさんはどうやら「家まで来れば直してやれる」的なことを言ってくれたようで、軽トラの荷台にママチャリを載せ、ぼくにも助手席に乗れと指示しました。

車内で教師に連れられて四国一周をしている、今日ゴールする予定だと告げました。先生はどうしたと当然の問いをされたので、気づかずに皆先に行ったと応えると、笑っていました。高知までは一本道なので迷うことはないけど、置いて行くのは酷いなと言ってくれました。

国道から山側の細い道に入ってしばらく進むと、急に三軒並んだ民家が現れました。どれも古い農家のような造りでした。おじさんは納屋に入って行きます。ついて行くと見たことない機械を触っていました。何に使うものなのか分かりませんが、バイクや自転車のようにチェーンと小さな輪がむき出しになった機械でした。ぼくの自転車から外したチェーンと機械のチェーンを見比べて「ぼっちりや」と呟くと、予備らしい部品を持って来て、ちぎれたチェーンを直してくれました。

おじさんの手際は良く、ほんの数分で自転車は元通りになりました。手を油で汚させたことを謝ると、こんなものは洗えば取れると笑っていました。ぼくは深々とお辞儀をして礼を言いました。

室戸に行った奥さんを迎えに行くので、そこまで送ってやるとおじさんは言ってくれました。軍曹達がどこまで進んだのか分かりませんが、室戸市内まで行けば追いつける筈でした。貰ったソーダ味のアイスキャンディを食べながら、助手席から海を眺めました。歩きながらだと壮大すぎて少し怖さを感じた海ですが、車窓から見ると美しく見えました。

再び合流

しばらく進み民家が増え始めた頃、前方に皆の姿が見えました。ぼくがいないことに気づいている筈なのに、普通に高知を目指して走っていました。おじさんは気づいてここで降りるか?と言いましたが、ぼくはそのまま進んでもらいました。一緒に走る気にはなれなかったというか、合流したくない気持ちになったからです。

数キロ先の室戸市内の中心部で下ろして貰いました。気を付けて行けよとおじさんはぼくの肩を叩きました。目の前にコンビニがあったので、そこで飲み物と菓子を買いました。もらったアイスキャンディが呼び水になったのか、身体が甘い物を欲していました。30分ほど日陰に座り込んで休憩しました。軍曹たちよりも先に帰ってやろうと思っていたのですが、集中力とか気合いが途切れたようで、自転車で走り出す気力が湧かなかったのです。

何本目かのチョコレートバーを囓っていると、軍曹たちがやって来ました。ぼくを見つけた軍曹は開口一番、なんや逃げたんかと思ったのにと言いました。それがこいつが発せられる皮肉の限界なのかと思うと、失笑しました。馬鹿でも笑われるとムカつくのか、一瞬気色ばんだ様子でしたが、軍曹はそれ以上何も言いませんでした。

再び全員で走り出すと、ムカイくんが最後尾のぼくのところまで下がって来ました。割と早めにワタナベくんが遅れてることに気づいたけど、軍曹が待たなくて良いって言ったからそのまま進んでた。ごめん、と彼は言いました。あいつホンマに狂ってるなとぼくが応えると、うん、ちょっと疑うよねとムカイくんは笑いました。

西に走るにつれて、通過する町も少しずつ大きくなり、交通量も増えて行きました。途中の町で遅めの昼食を取りました。初日で入ったラーメン屋と同じような町中華でした。今回も軍曹はぼくらの意見を聞く前にラーメンを六つ注文しました。あの時も集められたばかりのぼくらは無言でラーメンを啜りましたが、今回は別の意味で会話がありませんでした。

食事を終え走り始めると、右手にまた鉄道の高架が見えてきました。四国の南東側は高知と徳島で鉄道が繋がっていないのだと後で知りました。

次第に集落の途切れる間隔が短くなり、軍曹が「これが最後だ」と言った峠を越えてしばらくすると、国道は完全に町中を抜けるようになりました。太陽は少し傾いたようで、これが映画やドラマだったら、そろそろエンディング曲がかかるタイミングだなと思いながら自転車を漕ぎました。

朝は快適だった筈なのに、疲労はこの四国一周で一番蓄積されたように感じました。脛の横の筋肉が地味に痛み始めました。遠くに空港が見えた時、突風が吹いて麦わら帽子が飛んで行きましたが、もういいやと思ってそのまま走り続けました。空が茜色になり始めた頃、やっとぼくらは高知市に入りました。市の中心地で解散すれば、全員等距離で帰宅できるのに、軍曹は学校まで行くと言い張りました。どこかで逃げてやろうかと思いましたが、最後くらいは一緒に行動するかと思えた自分が不思議でした。

ママチャリで四国一周完了!

夏の夕暮れは長く、どこまで追いかけてもピンク色の空が続いていました。走り慣れた市街地を抜け、学校に着いた時もまだ夕焼けがありました。

校門前でぼくらは自転車を降りました。ああやっと終わったんだ。その感想しかありませんでした。軍曹はぼくたちを並ばせて、教師っぽいことを話し始めました。曰く、何もなかったお前たちに、夏の思い出が出来た。曰く、成し遂げたことは必ず自信になる。曰く、自分は教師として当然のことをしただけなので、感謝は要らない。

空々しい言葉を聞きながら、開いた口がふさがらないって感情はこういうことなんだとぼくは思いました。成し遂げたことは自信になるってのは百歩譲って認めても、何もないとか感謝は要らないとか、どういう思考回路をすれば言葉に出来るのかと、心の底からこいつの頭を疑いました。

もっと驚いたのは、感極まったのかシモカワくんとマツダくんが泣き始めたことでした。生徒手帳持参で真面目にチャリをこぎ続けたマツダくんはともかく、軍曹を殺してやるとうそぶいた癖に、一発殴られただけで泣きながら謝罪したシモカワくんが泣くのは滑稽を超えた怖さすら感じました。

泣いている二人に満足したのか、残りの夏休みも一生懸命頑張れ!と漫画雑誌みたいなセリフを吐いて、軍曹はその場を締めました。

特に別れの言葉もなく、ぼくらは解散しました。誰もいなくなった校門前でぼくはしばらく立っていました。立ち尽くしたと表現した方が良いかもしれません。我に返って空を仰ぐと、夜の色が夕焼けを覆っているところでした。

校門前の道を挟んで、幅2メートルほどのドブ川がありました。ぼくは10日以上乗り続けた自転車を担ぐと、ドブ川に向かって投げ捨てました。カゴに入れていた、パンツとシャツが入ったレジ袋が、ゆっくりと流れていきました。

レジ袋が何かに引っかかって止まった時に、タクシーが通りがかり、ぼくは手を挙げました。運転手さんに自宅の場所を告げると、シートにもたれかかりました。この数日間は何だったんだろうと考えましたが、答えは出そうにありませんでした。もうすぐ夕食と風呂と布団がある。それだけしか胸の中に浮かびませんでした。

その後

散々反抗的な態度を取ったものの、二学期になってからも軍曹からの報復はありませんでした。三年になったクラス替えで、軍曹のクラスからは外れました。四国一周した5人全員、別のクラスになりました。

軍曹は中学の教員免許しか持っていないようで、高校に上がってからは、まったく接点はなくなりました(書き忘れましたがぼくらの学校は中高一貫の私学です)

数年後教育実習で母校を訪れた時、軍曹は意味不明の持論を展開して職員会議を空転させられ困ると、他の教師から愚痴られました。頭のおかしい人間だと感じたぼくの判断は正しかったようです。

生徒を殴った上に逆ギレして、学校を去ったことを、少し前facebookの高校グループで知りました。


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