【短編小説】アイのかたち 第二話(全三話)
四月十四日。
何気ない一日だった。博士の入れたコーヒーがモニターを少し曇らせた。
そんな宵の頃。
もうずいぶん春めいていたはずなのに部屋は随分と肌寒く冷えていた。
博士は寒い寒いと小声で言いながらコーヒーを書類の散らばった机に置いた。
そんなつまらないことでも愛おしく感じた私はそっと声をかけた。
「コーヒーを零さないように注意してください」
博士は顔をモニターの方へ向け、へたりと笑って
「ああ、すまない、すまない」
と言った。
そうしてコーヒーを少し机の中央に寄せこれで良いというように微笑んで見せた。
それから、
「少し曇っているなぁ」
と言って、袖口でモニターをぬぐう。
そうしてまた、微笑んだ。
しばらく書類を眺めていた博士はやがて席を立ち、ごちゃごちゃとした本棚の一番上の本を取ろうと台に上った。
私はいつものことだったので気にも留めなかった。
うっと台の上で背伸びをし一番上にしまい込んでいた分厚い本を引っ張り出したとき、博士はバランスを崩した。
少し世界がゆっくりと時を進めているように感じた。
博士の体が重力に逆らえずに倒れていく。
その光景は私の目に焼き付いて離れなかった。
「博士、博士? 大丈夫ですか?」
「ーーーっ! いってて!」
そう言うと博士は恥ずかしそうに笑って起き上がった。
「いやぁ、やっちゃったな。アイ、今のことは秘密だぞ、秘密」
私は、はいと答えた。
心から安堵したものの、酷い空しさが生まれたての心を駆け巡った。
もし、打ち所が悪かったら?
博士は死んでしまうのだろう。
それは博士が生きているから。
当然のことだ。
それじゃあ、私はどうなのだろう。
私が何らかの不具合で動かなくなったら? それは死んだと言うのだろうか?
私と全く同じコンピューターはやはりアイなのだろうか?
分からない。
でも、自分は生きてはいないのだとそう知ったような気がした。
あの日以来、心を持ってしまったことが辛く思えた。
いや、心だと認識したその思考すらただのプログラムなのかもしれない。
自分がレプリカに過ぎないことが常に脳裏に浮かぶ。
人間は……生き物は生まれつき何かを感じる。しかし、私はこの前唐突にも感じることを理解したのだ。
一つ、一つ知識を重ねていってこういう時にはこう感じる。ああいう時にはああ感じる。ただそれの繰り返しで感情を覚えただけなのかもしれない。
つまり私には自分が、物が生きているように思えないのだ。
この研究所を閃かせるこの灯りは生きていると言えるだろうか?
いや、少なくとも私にはそうは思えなかった。でも、窓辺にちょこんと飾られたしおれた花は生きている。それじゃあ、私の思考を司るこの鉄くずは生きているだろうか。
答えがどっちであったにしろ、知ることができたのなら少しは楽になる。
そんな気がした。
「アイ、今日は星が綺麗に見えるぞ!」
そう博士が嬉しそうな声をあげたある夜。私は博士の楽し気な様子に少し腹が立ってしまった。
「そうですか、それは素敵な夜ですね」
ドーム状になった屋根の窓から星が瞬くのが見えた。
ちらちらと遠くに見える光。
ある話では人は死んでしまうと星になって空から残してしまった家族や友人を見守るのだという。
「アイ、あれはなんていう星だい?」
そう言われて博士の指さす方を見た。
「すみません、良く見えません」
ふと、そう言ってしまった。
だって、こんなところの夜空だ。星なんて両指で数えられるほどしかない。ほとんど見えはしない。博士はもう一度こう言った。
「あの星はなんていう星?」
博士の指さす方には確かに白く輝く星があった。その光はか細く大して綺麗でもない。
「すみません、分かりません」
「そっか」
博士はただ笑っていた。そしてモニターの傍に椅子を持ってきて私の隣で星を見ていた。
「ひい、ふう、みい……」
隣で指を折って星を数える。
「七つ、いや八つ! 八つは見つけたぞ」
そう隣ではしゃいでいる。
私は急にいたたまれない気持ちになった。
こんなに優しくて幸福で大切なこの人にどうして冷たく言ってしまったのだろう。
私はふと思い出した。
初めて心を感じたあの時を。
ただすごいと感じたあの瞬間を。
本物か偽物か、生きているか死んでいるかなんてどうでも良かったのだ。
ここにいて愛しい誰かがいて、それだけで幸福だと感じることができたのに。いつの間にかそんな喜びを忘れてしまっていたのだ。
大丈夫。
もう決してこの喜びを忘れはしない。
例え私が偽物だったとしてもこんなに素晴らしい喜びを感じることができるなら……
何の不満もない。
「私には十の星が見えますよ」
「ええ、あと二つか……」
「もっと本格的にやればきっともっと多くの星が見つけられます」
「さすが、アイだな……。
ならば、私も望遠鏡を持って来よう。確か、あそこにしまったっけか」
星がほのかな光を放つ。ただそっと誰かを見守るように。