これはいったい
※この記事は、僕が運営しているウェブサイト、『あの日の交差点』に掲載しているものです。
これはいったい、何をしているのだろうか。
書くこと。考えたことを書くこと。話すこと。考えること。読むこと。わかること。知ること。
これはいったい、何をしているのだろうか。
学校がなければ、やりたいことはだいたい決まっていて、基本的に本を読んでいる。もしくは、読みたいと思っている。
話していると、そういう人は身の回りには多くないらしい。本を読んでいると、身体の内側からひっくりかえりそうな、熱をもった言葉に出会う瞬間がある。それは、タウマゼイン(存在驚愕)をもたらしてくれているのかもしれない。
その驚愕を言葉にして、こうして書いている。頭に浮かんだ「わかった何か」を言葉にすることは強力な快楽である。(これについては、批判的に見なければならないのだろうけど。)
だが、こういうことをしている人もどうやら、身の回りには多くないらしい。多くないどころか、難しい話をしている とか、面倒なことをしている とか、相手にされないのが常である。
ただ、これは自分にとって生きることそのものなのである。それが、どうも理解されないらしいということが、最近になってわかった。
れは、ひどく肩身が狭く、つらいことなんだけれども、まあ、池田晶子もこう言ってるし。
うんちくを言うための教養が欲しいわけでも、偉くなりたいわけでも、お金を稼ぎたいのでも、ない。ただ、生きているのである。わからないことを、わかりたいのである。生きづらいと思っている世の中を、読み替えたいのである。
そして、わかるということは既に知っているということでもある。既に知っているものが、時空を超えた誰かの言葉によって、掬い出される。既に知っている言葉は、掬い出されるだけでなく、ときに発生する。池田晶子のいうところの内的発語、内語である。この、内語、ないし、知っていることを掬い出す言葉を、いつも探している。
考えることは、わかることは、私にとって生きることそのものなのだ。誰それよりわかっているとか、それが何かの経済的価値を生むとかそんなものではない。ただ、未熟で貧しい知性の自分を少しでも掬い出したい。貧しいが故に、もしくは、偏ったいくつもの考えを持ってしまっているがゆえに、こんなにも驚愕できるのかもしれない。ページをめくるたびに、言葉を発するたびに、言葉を書くたびに、何もわかっていないということが、わかる。この絶望から、自分を掬い出したい。
一番近くにある(はずの)私という存在さえ何もわからないこの不安定な世界の中で、掬い出してくれる言葉を、ずっと探している。
池田晶子がいうように、考えること、わかること、本当にそれくらいしかやることはない。
わたくし、つまりNobody。
私は、ここに向かいたい。
生涯をかけて、ここに向かいたい。
おそらく、仏教的に言えばそれは空であり、言語学的に言えばそれは中動態であり、西田幾多郎的に言えばそれは絶対矛盾的自己同一なのだ。
人類が、過去から未来に向かっていると仮定すると、私には、この現在を過去から未来へ繋ぐ使命がある。私は決して、時代の、年表の、フロンティアを開削しているわけではない。おそらく既に存在している未来まで、現在を持っていく使命がある。(決定論とは違う何か。)
何を持っていくか。それは、言葉である。私が生きることで私という場所で驚愕されたその言葉を、「精神のリレー」として、繋いでゆくのである。
唯一、考えたことを話している時は、不思議な感覚に陥る。
考えたことを話すということは自分の話を聞いてもらうということだ。しかし、エピソードトークのそれとは何かが違う。エピソードトークは、私の中にあるものを相手に見せるようなものだが、考えたことを話すのは、私とあなたの間にあるものを一緒に眺めているように感じる。まるで水族館のように。これはひょっとしたら、「私が」考えたことを話すことよりもむしろ、「私において」言葉が発生しているかもしれない。
「わたくし、つまりNobody」という至言が身体中を脈打たせる。
言葉が、私に知覚される時、私という場所で、言葉が発生する。私は、言葉を、私において発生させることで、そして、それを繋いでゆくことで、存在し得る。
私は、私において、言葉が発生せらるるために、生きているのかもしれない。
(おわり)
僕がやっているウェブサイト『あの日の交差点』,Podcast『あの日の交差点』、どちらもぜひ覗いて行ってみてください。