スーパーセンシティブ〜自分を殺すのはやめました〜
◾️プロローグ
私がうつ持ちになったのは、22歳の夏。
新卒で入った印刷会社で飛び込み影響をしまくった結果、会社に行けなくなりました。
もともと依存体質で、精神的にもろく不安定な部分がある人間だったので、うつになる素質はあったのでしょう。布団から出られなくなり、毎日「得体の知れない何か」に怯えながら過ごしていました。
当時付き合っていた方の献身的なサポートでなんとか社会復帰を果たしたものの、不安定な精神状態はその後もずっと続いていました。
そしてまたうつが悪化したのは26歳の夏。
いまの主人との結婚生活が大きな要因となりました。
何事もはっきり主張する主人と、「ケンカになるくらいなら私が我慢すればいい」としてしまう私の相性は最悪でした。
「彼に嫌われないように」。依存体質な私にとって、主人との関係が私の全てでした。
自分の気持ちは押し殺し、主人との良好な関係を最優先に生きて結婚3年後の夏、長男を出産しました。
■長男出産
人生初の出産には、主人の立ち合いを希望しました。
自分の子どもが生まれる瞬間に立ち会った彼は、「自分が2人を守らねばならない」と強く思ったようで、以前にも増して仕事に打ち込むようになりました。
朝早く家を出て帰宅は終電なので、夫婦で話をする暇もありません。彼なりに家庭を守るために頑張ってくれていたのでしょうが、そんなすれ違いの生活に私はただただ孤独を感じていました。
親は遠方に住んでいて、近くに頼れる人もいません。初めての子育てによる不安・不眠・栄養不足の3つが重なり、私の神経は驚くべき早さですり減っていきました。
しばらく落ち着いていた不安症状が出始めたので、カウンセリング治療を再開したところ、懇意にしているカウンセラーに離婚を勧められました。
「離婚なんてしたら、これからどうやって生活していけばいいの?」
新卒で働き始めて1年も経たずに精神的要因で社会からドロップアウトした私にとって、経済的な保護者である主人との別れはただただ恐怖でしかありません。精神的にも経済的にも主人に依存しきっていた私に「離婚」という選択肢はありませんでした。
限りなく非現実的な話だけど、精神面・金銭面共にもしも自立出来たなら、離婚はとても魅力的な提案でした。働くという現実は見つめず、ただ「自分が虐げられている」という箇所だけを取り上げて、当時の私はとても危ない状態にいたのかもしれません。
◾️愛のないセックス、2度目の出産
息子を妊娠した頃から、主人の亭主関白具合が気になりはじめました。お腹が大きくなるにつれて制限される行動。妊娠前と変わらない主人の態度。世の育メンとはほど遠い彼に、気遣いを期待する気持ちも愛情も薄れていきました。
「手を繋ぐのすら嫌だけど、どうしても女の子が欲しい。2人目が欲しい」
私は意を決して、断り続けていた主人の誘いを受けました。
2人目は念願の女の子でした。出産の立ち合いは母に頼みました。主人に対する期待は完全に消え失せていて、心から私に寄り添ってくれる人を選んだのです。
◾️首絞め事件
2人目が生まれ、僅かながら残っていた私の余裕は完全に消え去りました。
昼夜問わず泣き続ける0歳の娘。
人見知り全開でかまってちゃんな3歳の息子。
仕事に全力で家庭に無関心な夫。
息子が幼稚園に行っていて娘が寝ている間だけが、私の自由時間でした。
実家は徒歩圏内にありましたが、そこに居るのは子育て経験のない父だけ。
「心配をかけたくない」という思いから、夫婦仲がうまくいっていないことは父に話していませんでした。たまに実家に顔を出すようにはしていましたが、あまり頻繁に行くと不審がられると思い、訪問頻度は抑えていました。
そこには父への思いやりのほかに見栄や意地も含まれていて、同じ理由から親しい友人にも本音を打ち明けられずにいました。
「親しい人には弱みを見せたくない」。その思いが強くなればなるほど、「優しいママ」「いつも笑顔な奥さん」「幸せそうな家庭」を演じました。
でも本当はもうとっくに限界を迎えています。
いくら見えるところを取り繕っても心の中はボロボロで、自分でも気付かないうちに、1人ではどうにもならないところまで追いつめられていたのです。
私の情緒はどんどん不安定になって、イライラすることが多くなりました。
それは子ども達がいてもお構いなしで、私は自分の気に触ることがあるとすぐに泣いて落ち込んで、布団で寝込むようになりました。
この頃になると、さすがの主人も私の異常に気が付き始めました。
とはいえ多忙な彼に私の相手をする時間はありません。そもそも夫婦仲が良い状態ではないので、彼のサポートを私が望んでいません。彼は考えた末、夏休みの1ヶ月間は自分の実家に私と子ども達を預けることにしたのです。
義実家はゆったりとした田舎町です。
周囲に高い建物はなく、見渡すかぎり山に囲まれた場所。
徒歩圏内に海があって、空気がとびきりおいしい。
でも、そののんびりな環境が私の精神をさらに追い詰めるのでした。
「まひるさんはただゆっくりしていればいいのよ。家事の心配もしなくていい。子ども達は私らが面倒みるからね」義両親はそう言ってくれました。子どもを産んだ途端具合が悪くなってしまうような嫁を責めることなく、むしろ気遣ってくれる、とても優しい人達。
でも、私にはその言葉も態度も全てが重荷でしかありませんでした。
義実家で私は布団にくるまって泣くか寝るかの繰り返し。優しい言葉をかけられればかけられるほど、私の心は荒んでいきました。私が寝込んでいる部屋の向こう側で、「役立たずの嫁」と言い合っている義両親を勝手に創り出し、自ら心を疲弊させていきました。
もちろん、実際にはそんなことは言われていません。
優しい言葉が信じられなかったのです。
私の被害妄想はどんどん拍車がかかっていきました。
どうして責めてくれないのか。
どうしてもっとかまってくれないのか。
隣では生後間もない娘がわんわんと泣いています。
うるさい。うるさい。うるさい。だまれ。だまれ。だまれ。なくな。うるさい。だまれ。
わめくな。だまれ。さわぐな。だまれ。だまれだまれうるさいだまれうるさいだまれだ
まれだまれだまれうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいだまれだまれ
だまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれだまれ。
気が付くと
私は娘の首に手をかけていました。
いえ、本当は気付いていました。
明確な意思をもって、その柔らかな首を絞めていたのです。
「この泣き声を止めたい」
「こうしたら義両親や夫はもっと私にかまってくれるかな」
「ここまで追いつめられていたんだと気が付いてくれるかな」
「かわいそうだと言ってもっと私に優しくてくれるかな」
私はただ誰かに、この地獄の日々から救い出して欲しかった。
その道具として娘を利用しました。
■一番の被害者
娘の首にかけた手に力は入れませんでした。
義実家から自宅に戻ってからの私は、坂から転げる落ちるようにどんどん壊れていきました。
私のストレス解消は子ども達でした。
特に息子には当たりが強く、気に入らないことがあれば怒鳴り散らし、暴言を吐き、頭や頬を叩いたり蹴ったりしました。夫に言えない不満や怒りも育児ストレスも全て、自分より息子に吐き出して発散していたのです。
「そんなことをしても気持ちが晴れるわけではない」
そう思いながらも、抗えない衝動に気持ちを委ねて暴力をふるいました。
もう自分の力では「殴りたい」という衝動を抑えることが出来ませんでした。
叩いた後に残るのはいつも息子の泣き声と怯えた目。
そしてどうしようもない虚しさだけ。
どんなにひどい言葉を投げかけても、何度殴られても、時間が経てば息子は私に甘えてきました。それでも、私が彼の頭をなでようと手を伸ばすだけでビクッと体を震わせるのは、彼が9歳になった今も変わりません。
この頃にはもう、主人とのコミュニケーションは完全に破綻していて、彼に何かを言われるたびに、私は言葉にならない叫び声をあげ、物を投げて威嚇しました。脳がうまく機能せず、彼の言っていることも理解できなくて、まともに言い返すことが出来なかったこともあります。
でもそれ以上に彼が怖くて、とにかく怖くて、言葉を発することが出来なかったのです。
「私は今頭のなかがグチャグチャで、理論立ててきちんと話せる状態じゃないんだって
わかってほしい。お願いだから今は私に構わないで。そっとしておいて」
彼と相対するだけで、私の心のなかは恐怖でいっぱいになりました。
言葉にできない感情を、私は威嚇という行為で主張していたのです。
それでも、
それなのにまだ、
私は主人に愛されたいと思っていました。
私自身を一切否定しないて受け止めてほしい。
「大丈夫だよ。どんな君も大好きだよ」と抱きしめてほしい。
そう思っていました。
週末は主人に怯えて過ごし、平日はその鬱憤を子どもで晴らす。
完全な負のループから抜け出せなくなっていました。
そんなある日、「家族で近くのショッピングモールへ行こう」と珍しく主人が誘ってきま
した。よどんだ家の中の雰囲気を、彼なりに変えたかったのかもしれません。誘われたことが嬉しくて、私はとびきりのおしゃれをして出かけました。
◾️墜落
ショッピング中にも彼は私の出来なさ加減を注意してきました。
「ベビーカーを通路の真ん中で停めるなよ」
「(息子が)アイスを落とさないように食べさせられない?」
「言いたいことがあるならはっきり言いなよ」
1つ注意されるたび、どんどん不安定になる私の態度は彼をイラつかせました。
何がきっかけだったのか今でも思い出せません。
気が付くと私はショッピングモールの真ん中で泣き叫んでいました。
その時の私には世間体も何もありません。大騒ぎにすることで「ここまで私を追い詰めたのはお前だ」と主人をなじり、「この男は妻をこんな状態にするようなひどい奴なんだ」と周りにアピ ールしました。
私は全身全霊で「悲劇のヒロイン」になりました。
創り出した舞台上で、私は「可哀想な人」を全力で演じたのです。
「おい、いい加減にしろよ」
(それでもヒロインは止まりません)
「おいってば。立てって」
(もっと恥をかけばいい)
「あぁぁあ!もう!ぜんっっぶお前のせいだよ」
その一言で、私の舞台は突如幕を下ろしました。
周りの声は一切聞こえなくなり、視界には何も映らず、ただ私一人だけが舞台に取り残
された。そんな感覚。
我に返った私は、静かにその場に座り込みました。
うずくまって耳をふさいで目を閉じて。
そうすれば勝手にすべてが丸く収まってくれるような気がして。
実際にはそんなことはなく、私は母の家に連れて行かれました。
そしてその日から主人との別居生活が始ったのです。
◾️出会い
母の家で1ヶ月ほど暮らしたころ、母からこんな提案がありました。
「稲垣たろうたさんて覚えてる?あなたの家庭教師をしてくれたお兄さん。その人がヨガ教室を開いてるんですって。たろうたさん自身も大病されてね。ヨガで治したらしいのよ。通うかどうかは別として、話だけでも聞いてみない?」
薬もカウンセリングもなかなか成果が上がらない現状に、両親も私もだいぶ参っている頃でした。「ヨガで大病を克服したのなら、うつも治るかもしれない」母は藁にも縋る思いで私に話を持ちかけたのでした。
家族とすらろくに話せなかったのに、何故かたろうたさんには会う気になりました。
19年ぶりのたろうたさんはお坊さんのような穏やかな雰囲気をまとっていて、「この人になら話せる」自然とそう思いました。私が今までのことを話している間、たろうたさんはただ黙って聞いてくれました。そしてすべてを吐き出したところで、ヨガに来てみないかとそっと話しはじめました。
「強制はしない。ポーズをとらなくてもいい。スタジオに来て寝ているだけでもいいから。まずはスタジオに来てみない?来るだけでも変わるものがあるから」
なぜだかは分かりませんが、「私にはこのヨガが必要だ」と、私の中に小さいけれど確実に湧き上がるものがありました。
こうして私は、たろうたさんの経営するサットヴァスタジオへ通い始めました。
■電車が怖い
この頃は「周りの人間全員が蔑んだ目で自分を見ている」と本気で思っていたので、母の家から電車を乗り継いで都内のスタジオまでたどり着くことそれ自体が、とても勇気のいる行為でした。
まずはスタジオに来ること。
その目標のため、とにかく家を出て恐る恐る駅に向かいました。
辛くなったらいつでも途中下車出来るように、出発予定時刻の2時間前に家を出ました。電車を待つ人の多さに足がすくんだり、電車の揺れに気持ち悪くなって隣の駅で降りることもよくありました。突然息が出来なくなってホームの真ん中でうずくまることも。
すがるものが欲しくて階段の手すりにギュッとしがみついて、歩く私に好奇の目が向けられるたびに、恥ずかしさと人目に晒されている恐怖が込み上げてきます。
「今すぐにでも消えてしまいたい!逃げ出したい!帰りたい!」と心の底から思いました。
途中から、スタジオへ行くのは強制に変わっていました。「逃げ出す」という行為は私の中で許されないので、重い気持ちと体をを引きずりながら、とにかくスタジオを目指して進みました。
■泣くヨガ・寝るだけヨガ
ようやくスタジオにたどり着いたのに、今度は玄関のドアが開けられません。
「他の生徒さんたちは私をどう思うんだろう?変だと思われるかも。心の中で笑われるかも。暗くてみじめな奴だと思われるかもしれない」思いつく限りのネガティブな考えが巡らせながら、ドアを押し開けました。
スタジオの部屋は、玄関ドアを開けたら部屋全体が見渡せる、ワンルームタイプの造りでした。おずおずと室内に入ると、奥の方にたろうたさんがひとり座っています。ゆったりとあぐらをかいて、穏やかな表情でした。
「誰もいない。良かった」
ネガティブでいっぱいだった頭と心が少しだけ緩みました。
たろうたさんはニコニコしながら「よく来ましたね」と言って、床に敷かれた複数のヨガマットの1つに、私を案内してくれました。
ようやくたどり着いたという安堵感と、誰の目にも映りたくないという不安感から、私は案内されたヨガマットへ一直線に向かい、マットに着くなりストールを頭から被りました。
私の到着後まもなくして、スタジオには次々と生徒さんが入って来ました。彼らの気配が布越しに伝わってきますが、私は一切挨拶もせず、全身をストールにくるめて時間が過ぎるのを待ちました。
しばらくの間スタジオ内は、たろうたさんや生徒さん達の会話で賑わっていましたが、クラス開始の合図があると空気が一変しました。「場が整った」というのでしょうか。スタジオ内に適度な緊張感と心地のいい空気が流れ出しました。
その空気にこれまでの自分の全てが許されたような気がして、涙が止まらなくなりました。これまで堪えていたものが溢れるように、レッスン中ずっと声を殺して泣き続けました。
泣き疲れて寝て、起きたらまた泣いて。
スタジオに通い始めてしばらくはこのサイクルを繰り返していました。
■再始動
スタジオに通い始めて数ヶ月経っても、私は相変わらず人目が怖いままでした。人目に晒される恐怖を抱きながら毎回スタジオへ向かい、レッスン中もポーズはとらずにストールにくるまっていました。
けれどそんな日々に飽きている自分も実はいて、ほんの少しだけ体を動かしたり、ストールから目だけ出して外を伺ったりすることが増えていきました。
そんな風にモゾモゾしていたある日、たろうたさんから声をかけられました。
「寝返りをうってみましょう」
クラスの隅で寝ているだけの私が急に動いたら、周りに変に思われないだろうか。
他の生徒さんの反応が気になりながらも、たろうたさんの声に促されるようにそっと体を揺らしてみました。
一度体を動かしてみると弾みがついて、もう少し動かしたくなりました。生徒さん達はそれぞれ自分のポーズに集中しているようで、こちらを気にしている様子はありません。
それならばと、思い切って右肩を下にしてぐるんと寝返りを打ちました。この瞬間から私は再始動したのです。
■ささやかで温かい見守り
たろうたさんはクラス中も私の様子をしっかり見てくれていて、適切なタイミングで声をかけてくれるのでした。動き出してしばらくは寝返りの練習をするだけの日が続きました。感情の波が大きくて、心が不安定な時はストールにくるまって泣くだけでクラスが終わりましたが、それでもたろうたさんは何も言いませんでした。スタジオの生徒さんも、無理に私に話しかけてくることはなく、適度な距離で接してくれました。
寝返りに慣れたら今度は起き上がる練習です。
これは一気にハードルが上がりました。他の生徒さん達と同じ目線の高さになるのですから。
まずは亀のように前屈して、その姿勢に慣れたらほんの少しだけ頭を上げます。ゆっくり時間をかけて、少しずつ少しずつ頭を上げていきました。完全に顔を上げると、穏やかな顔のたろうたさんと真剣な顔つきの生徒さん達が目に入りました。
とても恥ずかしかったし気まずかったけれど、それよりも解放感が勝りました。
約2年ぶり。世界と繋がった瞬間でした。
■伝えたい想い
他の生徒さんと同じようにポーズに取り組み始めた頃。
たろうたさんの勧めもあって、別居中の主人に手紙を書くことにしました。
「恨みつらみや文句を書くのではなくて『私はこう思っているんだよ』という、まひるちゃんの気持ちを書いてみましょう」
アドバイスを受けて、できるだけ自分の気持ちだけを書くように意識しました。
書き始めは主人のことを考えるだけで呼吸がうまくできなくなりました。書こうと思うだけで気持ちが滅入るのです。
けれども、「手書きじゃなくてもいい」「文章にならなくてもいい」「うまく書こうとしなくていい」と言われ、少しずつ少しずつ私の気持ちを書き進めていきました。
どうしてそうまでして手紙を書くのかと聞かれたら、「伝えたい想いがあった」からとしか言いようがありません。本当は主人と関わる全てが嫌だったので、手紙も書きたいとは思いませんでした。このままサヨナラ出来たらと、本気で思っていました。
それでも、自分でも気が付いていない、意識の深い深いところで、「まだ彼との関係を終わらせたくない」という想いがあったのだと思います。
ただ、彼からの返事は拒否しました。
私が全身全霊をかけて書いた手紙、それは私自身と同義でした。それに対して万が一でも否定的な言葉を返されたら、今度こそ立ち直れないと思ったからです。
まずは一方的な方法で、主人とのコミュニケーションが復活しました。
◾️手紙の中身
ヨガを始めてちょうど1年が経過した2018年12月。
主人に何度目かのメッセージを送りました。今回はこれまでの手紙ではなくEメールという手段を選びました。手紙と違ってダイレクトに相手に届くものなので、彼との距離が近づくようでずっと手を出せずにいたのですが、サットヴァスタジオに継続して通うことで自分自身を客観的に捉えられるようになり、周囲の状況とも少しずつ向き合えるようになってきたのが影響しました。
ほんの少しだけ自信を取り戻した私は、彼とのコミュニケーションを次の段階へ進めることにしたのです。
返信はすぐに届きましたが、なかなか開封出来ずにいました。
「送ったメールの内容に対して、批判的な言葉が書かれているかもしれない。ろくに連絡しない私を責めているかもしれない」
このままでいることが出来ないのは分かっているのに、勝手な妄想はどんどん膨らんでいって、開封は後回になるのでした。
1週間くらい未開封状態でいましたが、どこかで腹を決めようと思い始めました。その裏には「私はもう1人じゃない」という気持ちが強くありました。父母や子ども達がいます。サットヴァスタジオへ行けばたろうたさんも、不安定な私をそっと見守ってくれるクラスの生徒さん達もいます。
いつの間にか私の孤独は消えていました。
ヨガのクラス後が心身共に一番良い状態でいられるので、その時を待って彼からのメールを開きました。そこに書かれていたのは私への批判などではなく、これまでの私に対する行為への反省と感謝、労いの言葉でした。
これには心底驚きました。今回もあのショッピングモールと同じように、私を責める言葉が並んでいると思っていて、それに対する心の準備しかしていなかったからです。
「全部お前のせいだ」と私を罵倒した彼から、こんな言葉が出てくるなんて。私はソファに深く座り込みました。あまりにも突然の、想定外の内容過ぎて「別人からの返信ではないか」と疑ったほどです。
メールには、当時どうして主人があんな行動をとったのかも書かれていました。
「仕事が忙しすぎる。子育てに参加する時間も、気持ちの余裕もない。そこに嫁が機能しないときた。嫁がやらないなら自分がやるしかないが、やり方が分からない。それによってまたイラつき、ストレスをため込む悪循環に陥っていた」
彼も余裕がなかったのだと、私はそこで初めて知りました。
メールの続きにはこう書かれていました。
『(別居中の)今は子ども達と過ごす時間が増え、前よりは子どもの世話も出来るようになった。息子と娘と3人で出かけるのも楽しいけど、ここにまひるがいたらもっと楽しいと思う。
今後は少しの時間でも、家族4人の時間を共有していけたらと思っている。今すぐには無理かもしれないけど、前向きに検討してもらえると嬉しい』
あれから3年たった今でも、このメールを見るとその時の記憶がよみがえって緊張します。だけどそれと同時に前進する力も湧いてくるのですから、不思議なものですね。
■エピローグ
2020年夏。
とうとう主人のいる自宅へ、子ども連れで戻ることが出来ました。
それからさらに1年たった今でも、正直なところ主人とスムーズな会話が出来るわけではなく、話しにくいことはLINEで伝えています。まだまだぎこちない関係ではありますが、離婚したり家出しようと思わないのはきっと、サットヴァスタジオでヨガを続けて、以前より冷静に自分を見つめられているからでしょう。
サットヴァスタジオではまず、自己の観察を勧められます。
「人が恐怖を感じるのは、自分が知らないことに対して」という話を、以前たろうたさんがしてくれました。観察がうまく出来るようになってくると、余計な不安を抱かなくなります。それは知らないこと・分からないことが減ったからに他ならないでしょう。
ヨガのポーズを通して心身を整え、同時に普段の生活でも自己観察を続けること。その2つを合わせることで生まれる絶大な効果を、身をもって感じています。
サットヴァスタジオとの出会いにより、私の人生は大きく変わりました。この出会いがなかったら、私も子どもも今生きているかどうか分かりません。
ヨガは一生続けていくものと心得ています。
ポーズをとっている時間だけではなく、生きる行為そのものがヨガなのだとサットヴァスタジオで教わりました。
人によっては私の体験を「奇跡」と呼ぶかもしれません。だけどこれは、正しいステップを踏めば全員が成し得ることです。私と主人の関係も、ヨガとの関わりもまだまだ始まったばかりですが、これからも自分の人生を使って「奇跡」を起こし続けていこうと思います。
2021年夏
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