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Vtuberリテラシー
Vtuberという言葉が現れて久しい。それはもはや流行というフェーズを終え、YouTubeの世界で当たり前の一部になっている。しかし、そんな日常の周りにも話題は絶えない。
今、Vtuber、潤羽るしあが歌い手として紅白にも出場したまふまふとの熱愛が発覚(本人達は否定しているが、熱愛、として炎上しているのでファンの方には申し訳ないがここでは熱愛とさせていただく)し、炎上しているのもそんな話題の一つである。知らない人のために説明すると、人気Vtuberである潤羽るしあの中の人(声を当てている人)と、前述の通りの人気歌い手、まふまふのメッセージのやりとりが潤羽るしあの配信に映り込んでしまい熱愛が騒がれ炎上、といったところだ。
Vtuberの文化に馴染みのない人からすれば、不思議なことかもしれない。別に、男女が付き合っていた、というだけであり日本中、世界中に溢れた話だ。そこで、なぜ、この一件はここまで大事になっているのか、私の視点から考察しようと思う。
日本では、声優という職業が一般的に認知されている。豊かな漫画、アニメーションの文化によるものであるのは言うまでもないが、Vtuberという存在は、一見すればアニメーションに似ていると思わないだろうか。二次元の画面上に映る絵があり、声を当てる人間がいる。構造的には非常に近いものがあると私は考える。しかし、ここで考えて欲しいのは、声優が結婚して、炎上するか、ということについてである。具体的に考えてみよう。例えば、2020年、人気声優の花澤香菜と小野賢章が結婚した。二人とも今の声優界を代表する人気声優であり、今後の声優界にも名を残すかもしれないような人物だ。今まで演じたキャラクターの数、人気はもちろん、本人たちにさえアイドル的な人気がある。しかし、このニュースには多くの祝福が寄せられ、SNSやテレビを賑わせた記憶がある。
この違いは、どこから生まれるのだろうか。
私は「声優」というワードにヒントが隠されているのではないか、と考える。声優の優は俳優の優と同種である。詳しい言語的な分岐はわからないが、俳優から派生した言葉が声優なのでないだろうか。ここで注目すべきは、要は声優は役者であるということだ。
彼らはあくまで芝居の世界に生きる人間であり、彼らの演じるキャラクターとは隔絶された別世界を生きている。私たちとは立っている舞台が違うのだ。
それに対して、Vtuberという存在はは我々と同じ舞台を生きている。YouTubeという日常の世界で、ゲーム実況や雑談をはじめとして、生身の人間と何ら変わらないことをやっているのだ。ここに、今回の一件の本質があると思わないだろうか?つまり、アニメーションにおける絵は我々とは文字通り次元が違うところに住んでいる。しかし、Vtuberにおいて、その絵が持つ役割は三次元の世界を生きるための"皮"であり、彼らの立つ舞台は我々と同じ高さなのだ。この事実が反映された現象として、声優がテレビに出ることはあっても、Vtuberの中の人間がテレビに出ることはない。以前、ダウンタウンの番組にキズナアイが出演したことがあったが、やはり、中の人間には言及されずじまいであった。
だからこそ、Vtuberという超次元的な存在を3次元と混同し、ガチ恋勢、という人間が生まれるし、中の人間について言及することが、ファンの界隈ではタブー視されるのだ。当然である。仮面舞踏会で仮面を外す人間がいないのと同じことだ。
以上のことから、題にもある通り私はVtuberリテラシーというものを提唱したい。提唱、などと言いながらも内容は簡単で、絵と中身をしっかり分離して考える、ということだ。絵と中身の同一視は今回のような外野からすれば意味のわからない炎上や、何百万というスーパーチャットを貢ぐ人間が現れたり、という悲劇(本人が満足してるないいいと思うけど、いつかインターネットの世界からそいつはいなくなるぞ!)が生まれたりするのだと思う。私に言わせれば、Vtuberという文化はバーチャル二次元メイドカフェや、バーチャル二次元キャバクラ、という表し方がカチッとハマる気がする。現実世界のそれらに溺れる人間がいるように、節度を持ってYouTubeという、個人の手には明らかに負えない海原を泳いでいかなければならない。