まずはじめに自己紹介②
新しい学びの場所、銭函で私は家族と離れて生活した。しかも各地から集まった同級生や先輩方、当時は120名近くであった環境。。
そこで3年間過ごしてきた中で分かったこと。
上下関係が厳しかったし、辛かったことも。嫌だと思うこともあれば、楽しいことも。これは、卒業生も在校生もみんな同じ経験でよくあることだろう。
ただ2つだけ、私は違う印象を受けた。
1つ目は、手話で学ぶ!手話を使う環境である出会いだったこと。これは、中学までに無かった新鮮な風景だったことを覚えている衝撃的な経験だった。なぜなら、ろう教職員の存在感が大きかったからである。
2つ目は、日本語の欠格が手話にあったこと。コミュニケーション能力で人間関係がどれだけ変わってくるのかという経験である。これは、本州から来た手話主体で学んできた同級生や普通学校で過ごした同級生の存在が影響している理由である。
この2つの経験で、私は疑問を自分の思春期に重ねて強い抵抗感の悩みにぶつかっていた時期があった。そのため、学校生活においては理解できないことがあれば、自己主張が強く大きなトラブルを起こすことも多かった性格でもあった。
もちろん、先輩に対しても反抗したり。時には同級生に最低な行動を犯してしまったりして職員会議で処分上の審議に持ち上がることも多くあるほど、問題児としては中学から継続して有名だった私である。
でも卒業まで見守ってくれたのは、当時の校長が聴覚障がいにおいて理解が深い心広い方であった。今もその人は尊敬する一人であり、ろう運動においても理解して頂ける信頼性のある教職員の理想像でもあった。今はもう定年退職して、網走市内のある学校の校長として勤めている。聴覚障がいとは離れてしまったが、その心広い障がい教育に対する熱心な姿勢ということは、変わっていない。特別支援教育としては、障がい者に寄り添うという教育の理念の凄さを学びたい頃である。この人の存在がなければ、私は周りの教職員の一方的な判断で退学処分→信頼関係を築くことも出来ずにヤケクソになった人生を送っていたかもしれないだろう。
これも聴覚障がい教育に関わる教職員としての夢を目指すきっかけの一つである。ろう学校の教育環境に強い抵抗感を持っている自分が、同じ気持ちを後輩に引き継いで欲しくないこと。そしてなぜそうなってしまったのかという周りの違和感に納得できないまま、我慢しつつ卒業してきたのである。
この卒業を境に私は、きこえる人の世界へ飛び込んだ。初めてのきこえる世界には、どんなことがあるのだろうかという気持ちがワクワクだった。
また高校から本格的に手話を一つのコミュニケーション方法として同級生に恋心を抱えながらも覚えていったことも青春である。まっ結局は、縁切られてしまうほど私のこと、嫌いみたいだそうだ。いつ嫌われるようなことをしたのか。私には覚えがないが、時間を許すなら、ゆっくり近況を語り合いたいとても大事な同級生であることを記しておく。
また恋心を抱えていた先輩にも同級生にもフラれたという青春も経験した。普通学校からきた同級生さえ、連絡よく取らないが元気にしているようで近況を語り合いたいと思うこともある。よくトラブっていた関係だけど、その同級生の存在は、私の気持ちを考え直すきっかけになってくれたことに感謝したいと思っているが、伝える勇気があの時はまだ若かったので改めて正直に直接伝える時間が欲しいところだ笑。
振り返ってみると、高等ろう学校には自分の人生を考えることできる原点だったが、今ではもう信用できない。あの頃の教育環境より酷くなっているというより、環境全体が悪習慣に変わり慣れてしまっているということに無念しかない想いがある。一刻も改善しなければならないところと願いたい。
そんな中で大学時代に入ろうとする。ここで、ある決心を持った私が今につながる一つの性格を作ることになる。
つづく