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命と将来に差別は許さない!

タイトルの通り、私はある事件に警鐘として皆さんに知ってもらいたい酷いニュースがある。以下の通り、今の時代に考えられない許し難い差別的事例が起こった。きこえる人に改めて差別とは何かを考えてもらうきっかけになるだけにマスコミが大きく注目している問題なのだ。

差別解消法が2018年に制定したにもかかわらず、同年にこのような差別的事例が発生したのは心痛いものであり、かつ許せないことは何か。将来のことをひどく言われていることだ。聴覚障がいの言語性そのものを酷く傷つけるものであり、低く扱われているように将来の見通しをバカにされるというのは障がい者ゆえの差別的表現に相当するものであってこれは誰でも怒る許し難い行動だと思う。

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(日本聴力障害新聞2021年6月号より)

2018年2月1日に大阪府立生野聴覚支援学校前の交差点に突っ込んできた重機にはねられて亡くなった井出安優香さん(当時小学5年生)のご両親が、加害者と建設会社を相手にたたかっている民事裁判を支援しています。
被告側は、井出安優香さんが聴覚障害者であることを理由に逸失利益(生涯の収入見込み額)の基礎収入を、きこえる女性労働者の40パーセントとすべき、理由として聴覚障害者の思考力や言語力・学力は、小学校中学年の水準に留まると主張しています。被告側の主張は障害を持つ全ての人に対する侮辱で、聴覚障害者を含めたすべての障害者はひとりの人間として扱われないという、優生思想ともみなされる差別の問題とみています。そこで、公正な判決を求める要請署名運動を始めることになりました。        (大阪聴力障害者協会HPより一部引用)

ここに記載している優生思想ともみなされる差別の問題は、現代において起きてはならないのに。なぜ加害者はそう考えて主張するのか。そして加害者と建設会社を擁護する弁護士もそのことを主張する上で、民事裁判を戦う必要があるのか。そこの疑問点が大きく社会的に注目する事態となった。

私がみる裁判とは、公正な判決であると強く考える。特に指摘する聴覚障害の将来に関わる侮辱的な発言があることが2点ある。

1点目は、事件当時のことにニュースではこう報道されていた。耳が聞こえていなかったから余計に逃げられなかったのでは?と。もし聞こえていたら逃げれたかもしれないというようなニュアンスでお話されていることも。ただ私は、あるネットの声にショック受けた。

「音が聞こえていたら助かったかもね。」
「子供でも重機なら音でわかるだろ、避けろよ」
「聴覚支援学校の子だから間に合わなかった」             「先生は何してたんだ。きこえているならなぜ助けられなかったのか。」

 ここでみる聴力という誤った認識がある。「難聴や聴覚障害」に対しての知識そのものが少ないので、やっぱりどうしても思い込みで色々「聞こえなかったから」という風に結びつけてしまう気持ちのきこえる人がまだまだ世の中には少なくともいるんだな。と感じた。これは聾学校に初めて赴任するきこえる先生も同じことであるし、特別支援学校教諭の免許状を持たない先生の多くはこの立場であることが多い。【きこえの理解】というのは、生まれながらにして正しく知っているわけではないことだろうと受け止めている。

でもこのように侮辱するような声が出ていることはちょっと人間としてけしからんと思った。またきこえる人のことも言われたようだか、果たしてどうだろうか。

逃げられる速度であれば、きこえる先生が気づいた時点で子どもたちの手を引っ張ったりして、バッと逃げ出す行動は出来ていたかもしれない。事件状況を調べてみると、当時聞こえる教員が2人がいた状況だったという。それでも間に合わないということは、そもそも「きこえ」の可否関係なく、以前に重機(を運転する側)のスピードが早かったか、逃げられない状況だったのではないかと予測されるのである。つまり、加害者側は自身のてんかんという病気を抱えながら医師に注意されていることを無視、隠して運転していたという反省を示さない。「きこえ」という障がい上の言い訳の反論ではないかと感じるのだ。これが1点目である。

2点目は、裁判の中で争われている論点として「聴覚障害者は、思考力、言語力、学力を獲得するのが難しく、就職自体が難しい。したがって、逸失利益(生涯の収入見込み額)の基礎収入を、聞こえる女性労働者の40パーセントとすべき……」というのがある。これに対し、担当する松田弁護士は『聴覚障害者は、思考力・言語力・学力が劣っている』などといった評価・主張は、まさに歴史的な偏見に基づく評価・主張であり、誤りです。このような偏見が聴覚障害者にとって、「障壁」すなわち障害そのものなのです」と弁護していた。

この担当弁護士の述べている「歴史的な偏見に基づく評価・主張であり、誤りである」はまさにその通りである。そもそもなぜきこえないことが学力を低くみるのか。これは聾学校の学びそのものを馬鹿にしていることであって、保護者と歩んでき苦労・努力を全く知らない意味で大変遺憾なことばであると加害者側の認識がおかしいと考える。

ここでいう逸失利益の算定方法の根拠として、「9歳の壁により、聞こえるものと比べて、思考力・言語力・学力を獲得するのが難しく、就職やキャリアアップに影響を及ぼす。このため、聴覚障害者が得られる賃金は低廉なものとなる」と加害者側の認識はこう述べている。

この「9歳の壁」という言葉をどこから知っているのか。どのようにして学んでいるかどうか。もし学んでいるとしたら、この認識は理解出来ない誤った受け止めであり、「9歳の壁」とは、この時期の子ども達がつまずきや劣等感を抱いたり、自己肯定感が持ちづらくなったりする発達上の現象のことであると正しく理解するべき。これは、教育環境によるものが大きいとされており、聞こえる・聞こえないなどの障害の有無はほとんど関係ない。

特に9歳の壁を乗り越えられるかどうかは、教育環境によるものが大きく、安優香さんが通っていた聴覚支援学校では、このための取り組みを充実させていると伺っている。また世間でも聴覚障がい児の教育はかなり進んできていますし、社会の理解や配慮も増え、就職率も高くなってきている。「9歳の壁を乗り越えられない」という昔のようなレッテルを貼る事態はほとんどないと考えて欲しいと訴えていきたい。これが裁判における重要な論点である。これが2点目である。

この2点を踏まえて、公明正大な判断が行われるべき裁判でなぜこのような主張がされるのか驚きを禁じ得ない。私が言いたいのは、このような偏った見方や誤解は、今後の裁判にて是正されなくてはならないということである。このような想いを一人でも多く知って頂きたい。

 この公正なる裁判に賛同の声を多く集めようと署名活動が現在も行われている。ぜひ一人でも多くの方に賛同していただけることを願いたい。6月30日までとしているが、開始してわずか4日で、当初の目標だった10,000筆を達成し、6/13時点では、16,000筆の署名が集まっているようです。

「大阪府立生野聴覚支援学校生徒事故の公正な判決を求める要請署名運動へのご協力のお願い」

これを機に聴覚障がい教育とは何か。そしてきこえとは何かという正しいことを一人でも多く分かってもらうために今後は、自分の経験したろう学校の学びを踏まえて執筆していきたい。