情報保障支援の変化とコロナ禍
今回は、大学時代の話になる。高校までは教師の話や教科書でなんとか学ぶことができるということが当たり前だった。
そんな世界に甘えている私が、大学で学び方を大きく変える経験を受ける。もちろん、不安はあったが幸いS大学には情報保障支援がもともと整備されており、卒業した先輩のアドバイスで難なく受け始めたわけである。ノートテイクとPCテイクを受ける割合は、ほぼ半分と充実していた。(※1このスライドは、大学3年のとき学生課からの依頼で、新入生向けのガイダンスに在校生の講話として呼ばれた際に利用したもの。)
(※オレンジ→PCテイク、ピンク→ノートテイク、黄色→テイカーの都合次第で両方利用したことを分かりやすく色分けで示している。)
この4年間で情報保障支援の在り方は大きく変わった。学生主体という支援整備がついに変えるきっかけとなったのが、2011年東日本大震災である。当時大学4年で、(「まずはじめに自己紹介③」で話したように)毎日通学して忙しい講義をやり繰りながら生活していた時期であった。
この日、みなさんも忘れてならない東日本大震災では、被災地の被害が大きく被災地だけの問題ではなかった。ここS大学でも、聴覚障がい学生の通っている高等教育機関の一つとして情報保障支援が充実している認識度が高く、日本聴覚障害学生支援ネットワークPEPNetーJapanに入っている。その連携している被災地の大学からの困っている情報は、入ってきたわけである。また2011年の前年には、宮城県に訪ねたばかりでもあり宮城教育大学の学生さんと交流したことも含めて、ぜひ応援しなければならない側になったことは記憶に残る。2011年は、全日本ろう学生懇談会のつながりでも大きく活かされていた1年でもあった。情報保障支援の意見交換が増え始め、各地の現状をかなりまとめることが出来たことは、改めて別日にお話ししたい。
被災地の大学に通っている聴覚障害学生のために何か出来ることないだろうか。ということで、始まったのが今に至る新しい遠隔情報支援の方法である。この新しい遠隔情報支援の本格的施行(2012年4月〜)の前に先取りして、取り組んできたモデル試行期間(※東日本大震災がきっかけで導入する機会になったため、最初の1年間は正式ではなかった。もちろん、限られた機材と費用の中で周りの理解を得ながら実施された。)のサンプルとしてある先輩学生と私が初めて利用した。この1年は、試行模索しながらの取り組みでこの遠隔情報保障の支援についてレポートをまとめることの経験をした。何度も世話人であった先生と意見交換しつつ、またテイカー学生と意見交換し、良い方法を探しながらと色々なところに協力を得て進めてきたことは忘れられない。(※下の写真は、筑波技術大学のご協力を得て実施された導入説明会のガイダンスである。)
そして東日本大震災における遠隔地情報保障の支援も貢献してきたS大学の報道記事(※上:釧路新聞2011年5月24日付・下:北海道新聞2011年6月2日付)があるので紹介する。この記事に出ている学生さんとは、同級生であり、この学生さんの支えで卒業できたし、同じ教職員として歩み出した。本当に感謝の大きい気持ちをもって改めてお礼申し上げたいところである。
あれから数年後、遠隔情報支援の在り方は大きく次は音声認識アプリ「UDトーク」による情報保障支援の活用が積極的に利用されていると後輩の学生さんから情報を得ている。私が受けていた時代は、大きく変わったのであろう。そしてコロナ禍の中で情報保障の在り方も、また一段変わってきたということを聞いたばかりである。確かにいつものノートテイクやPCテイクで見掛けるような2人ペアの間に座るということも出来ないですね。(汗)
コロナ禍の対策方法として、離れた席で着席しなければならないためにノートテイクは多分難しく、今後はPCテイクや音声認識アプリによる遠隔での情報保障をうまく活用しなければならないことは増えていくことなるだろうと感じた。この状況下で通う聴覚障がい学生には、とても大変であるがきちんと学びを受けられる環境であれば、ぜひ貴重な経験であり頑張ってもらいたいと応援している。そしてこの経験が改めて情報保障に感謝するということで、ぜひ後世の生徒に大学進学の安心・自信を強く後押しできるように引き継いで欲しいと思う。
と今回は、S大学に進学して良かった情報保障支援についてを中心にコロナ禍によって変化してしまった日常を考えて書いた。この情報保障を知るということは、ぜひ高校生の進路決めに一つの情報としてしっかり発信することが大事でもある。しかしながらその情報を握る機会は一教職員の努力でないと難しい面はある。その辺もやっぱり、もったいないところだと綴じておく。