【逃げ上手の若君】保科弥三郎•四宮左衛門太郎データベース!(第3回 史実と漫画の違い編)

※本記事の内容は『逃げ上手の若君』(松井優征)単行本13巻までの内容を含みます。

 週刊少年ジャンプで大人気連載中『逃げ上手の若君』に登場する保科弥三郎と四宮左衛門太郎。逃若党を頼もしく助けてくれる格好良いコンビです!

 本記事ではそんな保科四宮が史実ではどんな人たちだったのか、また2人の聖地巡礼オススメスポットなどを紹介し、保科弥三郎・四宮左衛門太郎を様々な角度で楽しむお手伝いができたら嬉しいです!

第1回目(史実・基本編)はこちら
第2回目(聖地巡礼編)はこちら

 第3回目は史実と漫画の違い編です! 保科・四宮は史料に登場する人物ですが、『逃げ上手の若君』では史実から少し脚色されて描かれていることが多いです。
 そこで今回は史実と漫画の違いを見ていくことで、作者の松井先生がどのような意図で彼らを演出したかを考えたいと思います!


①活躍の場

 まず保科・四宮が史実に登場するのは一度きり、1335年の中先代の乱の様子を記した市河文書に二人の名前が載るのみです。詳細な活躍は②に譲りますが、概要は乱の幕開けとして7月14日に保科弥三郎・四宮左衛門太郎が北信濃で蜂起し市河助房たちと戦った、です。以上です。歴史の表舞台に一度だけ登場する健気な存在感が好きです。(市河文書について詳しくは本noteの第1回目をご覧ください)

 対して漫画では活躍の場が大きく増えています。一覧で見てみましょう。

 1334年春:信濃国司に対して蜂起(戦自体が漫画オリジナル)
 1335年3月:中先代の乱の前哨戦に参加
      (史実でも常岩・深志で反乱が起こった記録はあり
          057_市河助房等着到状 | 市河文書 | 長野県立歴史館
 1335年夏:中先代の乱に参加(史実通り)

 漫画では1334年から1335年中先代の乱までに2回追加で戦っていますが、なんとそのうち1回は戦そのものが漫画オリジナル。中先代の乱へ向けた顔見せをするだけならば1335年3月の前哨戦からの登場でもいいはずなのに、なぜ戦を1つ創出したのでしょうか。

 それには、保科・四宮の物語上の役割が大きく影響しています。
 物語の中核である中先代の乱は鎌倉到達までが2パートに分けられます。信濃の民が圧政に対して立ち上がり国司を討つ信濃編と、時行様が鎌倉を目指すいざ鎌倉編です。そう、中先代の乱は前半は信濃の民、後半は時行様と主役が入れ替わり、前半は時行様が信濃の民を手伝い、後半は信濃の民が時行様を手伝うギブアンドテイクが行われているのです。そうすることで信濃の民がいわばよそ者の時行様に従う理由付けができるのだと思います。

 そして前半の主役、信濃の民を象徴する存在が保科・四宮なのです。彼らは国司の圧政を受けて1334年春には保科が領地の半分を失い、1335年3月には四宮が領地を全て失い、反乱を起こすしかない程に追い詰められていきます。しかしその代わりに両党合併など、圧政に対して団結していく様子も描かれます。この圧政と団結を重ねて描くことで、中先代の乱で爆発的な力を発揮する信濃の民に大きな説得力が生まれます。保科・四宮はもはや信濃編の主役と言っても過言ではありません(過言かも)。

②中先代の乱(信濃編)での動向

 それでは中先代の乱での保科・四宮の活躍を細かく見ていきましょう(鈴木由美『中先代の乱』)。
 まず史実では、彼らは戦の幕開けとして北信濃で蜂起し、少なくとも7月14日〜22日まで市河助房や村上氏と対峙して千曲川沿いで転戦したようです。
 しかしそれは陽動作戦であった可能性があります。彼らが守護勢力(小笠原貞宗も含む)を引き付けている間に、時行様と頼重様は信濃国司を攻めて自害させ、そのまま鎌倉へと向かって進軍します。陽動作戦、格好良いですね!!

 対して漫画では、まず史実と同じく北信濃で蜂起し市河助房と戦っています。
 漫画オリジナルなのは、その後市河助房との戦いを三大将に引き継ぎ、信濃国司と戦う北条・諏訪軍に合流し、最終的に直接国司を討つ展開です。
 ①で述べた通り信濃編の主役として、信濃編ボスである信濃国司との因縁に自分たちで決着を付ける展開に変わっていますね。長く虐げられてきた国司をその手で討つ大役(重罪とも言う)を任せてもらえるのは流石に痺れます。

③中先代の乱(いざ鎌倉編)での動向

 史実では、北条・諏訪軍は信濃国司を討った後鎌倉に向かって進軍しますが、鎌倉へ向かう軍勢の中に保科・四宮の名前は見えません。信濃にとどまり、信濃守護と戦い続けたと考えられます。その結果、四宮氏は滅びその領地は小笠原氏に渡り赤沢常興が治めたようです(更科郡誌、更科埴科地方誌)。つ、辛い…。

 対して漫画では、北条・諏訪軍に従軍してそのまま鎌倉へと進軍します。そして中先代の乱終盤では先に郎党たちを信濃へ帰して最後の戦いには当主だけが残り、最終的に生き延びたもののその後の行方は分かっていません。これから再登場してくれるのか、その時には信濃に戻っているのかそれとも流浪の旅を続けているのか、ずっとソワソワしています。
 また、四宮氏は当主は死なないものの、1335年3月の前哨戦で領地を全て失い、その際に保科党と合併して以後自身も保科党を名乗っていることから、逃げ若世界の史料では1335年3月時点で四宮氏が滅亡したと書かれていてもおかしくありません。

 鎌倉へ従軍したのはやはり①の通り、信濃での戦いを手伝ってくれた時行様への恩返しとして信濃の民が鎌倉入りを手伝ったことの象徴だと思います。
 また乱の終盤で信濃に帰り史実に合流するチャンスがあったものの鎌倉に残ったのは、②で信濃国司をその手で討つ重罪を背負ったため、乱の首謀者たる頼重様と同じく責任を取って討死にする覚悟であったのでしょう。時行様を逃がすため決死の足利軍足止め組に加わります。

 しかしそこへ時行様本人が乱入し、生きることを高らかに叫んで一時ではありますが信濃の兵を救い出しました。頼重様はなるべく自分以外の者は生き延びさせたいという思いだったために、保科・四宮は共に自害することを許されず立ち去った、なんとも味わい深い顛末です。
 信濃の民という非宿命的な物語の役割を背負わされつつも、乱世と“生”がぶつかる波乱の物語の中で運命が大きく変わり、主君が死んでも生きなければならない斬新な生き方を強いられる。一般武士が逃げ上手の若君に巻き込まれたがために本当に生きたがりにさせられてしまった様を目の当たりにしました。言葉がありません。

④領地の位置

 おまけで、領地の位置も若干違うようです。
 まずは今に残る地名と氏館跡から、実際の領地の大まかな位置を確認していきます(図1)。保科領は千曲川と犀川の合流地点の南側、四宮領は千曲川が右に折れる地点の北西側にそれぞれあります。保科領から見て四宮領は千曲川を挟んだ南西側に位置しますね。ちなみに、中世の各領地はもう少し広い範囲のはずですが、今回は位置を確認するだけなのでアバウトにいきます!汗

図1,実際の位置(作成:まは)
図2,漫画の位置(出典:『逃げ上手の若君』(松井優征,集英社))

 次に漫画内の位置を見ていきます(図2)。保科領は実際とほぼ同じですね。ただ四宮領の位置が大きく変わり千曲川と犀川の合流地点の北側、保科領から見ると千曲川と犀川を挟んだ北側になりました。
 これは、1334年春の国司への蜂起の際に、保科軍が撤退しやすくするための変更かなと思います(図1参照、四宮曰く「北に武士を集中させれば四宮党と連携してしっかりした防衛線が築ける」)。

感想
 保科・四宮の史実と漫画の違いを見てきましたが、明確に物語上の意図や役割を見つけることができたので充実感があります。そして最終的にはその役割からも解放されるのがとても文学的というか、好きです。まあこの先信濃に戻った姿が確認されても嬉しいのですが! すごく楽しかったので、他のキャラでもやってみたい、というか誰かやって結果を教えてほしいです。逃げ若考察楽しい。ここまでお読みくださった方、本当にありがとうございます。よろしければ感想や考察を教えてくださると嬉しいです。


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