青龍を追った男 外伝
青望が四つのときであった。名はまだ尚と呼ばれた頃だった。張良文は尚の父・良剋の実父で祖父に当たるが、良剋の妻で良文の義娘に当たる林雅は良文の情事の相手であった。体を壊して以来、情交の数はひところよりは減っていたが、夜、酒が入ると相変わらず林雅の体に吸い寄せられ週に三、四度は行為に及んでいた。衰えのせいか、近頃は漢方薬や健康に良い食材に関心を向けている。それで良文は最近になって生業の乾物商の利益から自分の山を買った。そこに作物、薬草などを植えて、自らの店でも扱うほか、食卓や健康増進の楽しみとしていた。
その山は厦門の自宅からは歩いて二時間ほどで遠くはなかったが、山の斜面は急で五十を過ぎた身には楽ではなかった。今日、そこに良文は四歳の尚を連れだした。尚は体もこの年齢の子どもにしては大きく、山を歩くのも苦にしないほど元気であった。尚はこれまでにも店の従業員につれられ一緒にこの山に登ったことがあるようだった。相変わらず良文に対しては無表情であったが機嫌は悪くないようだ。なついていない祖父の誘いに良文が拍子抜けするぐらいあっさりとついてきた。
この山には一か所、難所というか危険な場所があった。急斜面にわずか三○センチくらいの細い道が二メートルほど続いているところで、崖下五○メートルはあろうかという絶壁の場所だ。
岩肌には鉄杭が打たれロープが渡してあって、つかまって行くことはできたが、小心者には身が竦む場所であり、引き返すこととてさほど珍しいことではないというような場所であった。
良文は義娘・林雅が、自分と実子の夫・良剋以外の男とも肉体関係があることを薄々感じてはいたが、交情の数から言ってやはり自分との関係が多いわけで「尚がもしや自分の実子ではないか」と常々疑っていた。
事実は「尚は旅芸人で博徒の流れ者・劉青海と雅との間の子」であり、「良文の子」ではなかったが、疑うのは無理からんことであった。疑う気持ちからなのか、なんだか尚は以前から自分によく似ている気がしていた。
雅には先に二人の子がいたが、いずれも一歳を待たずに死んでいる。
もちろん、事故死、病死という不慮の死であることにはなっていたが――良文はもしかしたら雅が殺したのではないかとにらんでいた。情婦とはいえ雅の性格が酷薄であり、冷淡であるだけでなく、人格が異常であることは熟知していた。よって尚もやがて幼くして死んでしまうのではないかと思っていた。しかし、あにはからんや、尚は今年四歳になり、驚いたことに近頃は雅が尚を自分の子どもとして人並みにかわいがっている節がある。そのため良文は昨今焦りに似た感情に戸惑っていた。
避妊はしていないから、前の二人はおそらくは自分の子であったろう。だから死んで内心はほっとしていた。しかし、尚はこのまま成長していくとしたら、万が一「自分の子」で、「雅との情事の事実」が周囲にばれたらと考えると不安であった。だから、できれば尚は死んでくれれば都合がいい。良文はそう考えていた。
良文は元来保守的で人を殺せるような人間ではなかった。しかし、雅との関係が良文の想念形態をいつのまにか変えてしまっていた。それは、まるで雅の非人間的な感情の感染・汚染とでもいえそうだった。良文の心だけでなく、それはこの店の空間全体を覆っていたようでもある。雅はその黒い感情の湧き出すポータル=門のような存在であったのだ。「快楽の果ての子などは消えてしまえばいい」――いつの間にか良文は心の領域にそんな暗い部分が巣食うようになることを許してしまっていた。
山中の開墾地までは山道に入ってからだいたい一時間くらいかかる。良文は尚を前に行かせ、後ろから孫の背を押し進めるようにゆっくり歩いた。時折具合のよい岩場に腰掛けては遠くの山々を見上げては休んだ。初夏の快晴、山の緑が心地よかった。山道は樹木のトンネルを抜けると見晴らしが良かった。尚は良文には自分からは話すことはほとんどなく無口であった。というより避けている風であった。普段は良文が時々話しかけても無言でじっと見つめられることがあり、良文は薄気味悪さを感じていた。
今から半年くらい前だろうか。昼間酒を飲んだ良文は、雅を離れに誘って情事に及んでいた。そのときに誰かの気配に気づいた良文は帳越しに覗いていた尚の姿を認め、逆上のあまり尚を捕まえてその口を右手で塞ぎ、左手で尚の左手を後ろに回しねじあげた。
「おまえは今見たことを誰にもしゃべるんじゃないぞ」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
尚は痛みと恐怖で震えながらか細い声で許しを乞うていた。
良文は興奮が収まらないまま、おびえる尚を抱え、土間に下りて広口の高さ一メートルほどの水甕の中に尚の顔を上にしたまま水に沈めた。尚は暴れたが声が出ない。鼻に水が入りむせるが、良文はすごい力で押している。尚は足をバタバタと動かすと良文はバランスを崩して湿った土間に転んでしまった。後頭部を打った途端、良文は自分のしていたことに急に気付いたように起き上がった。
尚は水甕の底に沈んでいた。あわてて良文は尚を足から引っ張って土間に横たえ、水を吐かせた。良文は息があがり、苦しげにしゃがんでしまった。尚は水を苦しげに吐いていた。林雅は少しだけ帳から顔をだしただけであとは臥所に戻りさも不快げな表情で着替えていた。自分の子どもにはまるで関心がないように見えた。良文は自分のしたことの罪深さと林雅の冷たさに白けてしまい、自分が引き起こした悲惨な情景の中に呆然としゃがんでいるだけであった。
ややあって、尚は一点を見つめたまま離れからゆっくりと歩きだし出ていった。無表情だったが悲しみを抑え込んでいる風にも見えた。
さすがに良文は良心が咎めた。良文は臥所の林雅を避け、尚の後を追うようにして離れを出た。気がつくと尚はいなかった。罪の重さが良文にのしかかり酒のせいかその場に嘔吐した。その横を林雅は無言で通り過ぎていく。後ろ姿はいかにも冷淡であった。
そのまま店番に戻った林雅は何事もなかったように乾物商の番台に戻り、従業員に代わって座っていた。熱にうかされたように良文は番台を離れ辺りをうろうろしたあと、離れに戻って先刻の修羅の場である土間に置いてある酒甕をあおった。淀んだ赤黒い穢れた気が自分をべったりと包んでいる気がした。良文はめまいのようなものを感じてその場に跪いて再び嘔吐した。
尚は「この一件」についての一部始終を父である良剋に精いっぱいに告げていた。心を病み寝室に閉じこもることが多かった父ではあったが、さすがに事態を重く見て傷ついているであろう尚を憐れみ、翌日から近所でも人柄のよいと評判の伯母を乳母として昼の間だけ雇った。そして、良文と林雅の部屋から離れた部屋に父と二人で寝られるように手を打った。ただ、「この件」は外部には漏らさぬように秘密のこととされた。良剋も尚に「人に話すことは危険である」ことをさとした。
その日以来尚は人を怖がるようになり、水場や狭い場所を嫌がるようになった。良剋は不憫に思ったが、自分にはどうしようもできなかった。そこで一計を案じ、尚を親戚などに預けようと考え、いくつか心当たりを探してみたのだった。
果たして、林雅の育った陳家が預かってもよいという返事がきた。環境も田舎であるし、学問のある雅の養父に人情味がある養母は信頼できそうであった。林雅は陳家を嫌っていたため林雅が陳家を訪れることは多分ないであろう。複雑な境遇に育った尚は、客家という教育熱心な環境に預けられることで立ち直れるのではないかと感じられた。
良文は「あの事件」の後、何を話してもじっと薄気味悪く無表情な孫の尚を避けていたので、尚を陳家に預けることには賛成だったが、張家の恥になる秘密を尚が――良文の実子・良剋に告げ口したように――誰かにしゃべるのではないかと気が気ではなかった。
前を歩く尚を崖下へ落とすことは簡単に思えた。事故死に見せることは造作もないように感じていた。しばらく歩いたとき、突然目の前を大きな石が落ちてきた。体には当たらなかったが、ふと前を見ると、尚がこちらをじっと見つめていた。寒けが走った。
(これは……尚が坂の上から足で石を蹴り落とし、自分の前に石が落ちてくるように仕向けたのではないのか?)
と感じた。そういえばさきほど岩場に腰掛けて休んだときに、尚からかえってきた竹の水筒の中につま楊枝が入っていて危うくのみ込みそうになっていた。あれもひょっとしたら尚の仕業なのか……。尚は……自分に復讐するつもりなのだろうか。自分を殺すために尚は山へ行く誘いに乗ったのだろうか。
恐怖が体を走った。疑心暗鬼にかられた良文は、「この子どもは殺してしまわなければ、いつかきっと自分が殺されることになるだろう」と、直感した。しかし……いや、待て――果たしてこれは一体誤解なのだろうか真実なのだろうか。良文は自分に確信が持てなかった。死の恐怖と人を殺さなければという狂気が想念に居座っていた。
いつの間にか山中の開墾地に着いていた。良文の頭は沸いたように混乱していた。尚は開墾地に植えられた果物の木を興味深げにみては飛びまわって遊んでいた。特にビワの木と桃の木とイチゴ畑は気になるようだった。
五月初旬の今は新じゃがいもの小芋にさやえんどうが成っていて、桃はまだ青いがビワの実がもうじき色づく頃だ。早生の椎茸を間引いた小さい椎茸は初夏のごちそうであった。頭を出したごく小さい椎茸を来週ぐらいには間引いてやろうかと考えている。
落ち着こうとして良文は竹の水筒を取り出した。中から楊枝などが出て刺さらないようにゆっくりと飲んだ。五月の快晴、緊張と明るい日差しですごく喉が渇いていた。
山中を開墾したこの一帯は天窪と呼ばれていた。良文は林の中には椎茸のほた木を組んで栽培し、日当たりのいい開墾した土地には果物や栗の木、芋類、野菜類、薬草などを植えていた。果物の数は多くはなかったが種類は少なくなく、尚は嬉しそうに次から次へと見ている。尚は食べることが好きなことは聞いていたが、特に果物が好きであるようだった。そのさまは四歳の子どもそのもので、この子がまさか自分を殺そうとしているなどとはとても信じられなかった。やはり殺されると感じたのは誤解だったのか?
その無邪気で真剣なまなざしが一瞬無防備になっていた良文の良心に突き刺さった。それは子どもへの愛情を感じさせてしまうのに十分な効果があったようだ。仮にそれが身を守るために装った子どもらしさの演出だったとしてもだ。
天窪からの眺めは最高だった。遠くには厦門の海や島が見える。眼をこらせば船も見えたし、警笛も聞こえる。海と反対側には福建の山々が青々と続いている。山鳥は陽気に鳴いている。時折蝶がやって来ては素早く畑をすり抜けていく。初夏の風が繰り返しさわやかさを運んでくる。
気分が良くなってきた長文は、家から持ってきた弁当を取り出して尚に分けてやった。ピータンとくず肉の切れ端を入れ、味噌で味付けして蒸した粽だった。張の家の粽はひとつが大きい。ふつうの小さい粽の三個分はあったろう。口に入れるとしばらく食べ物を口にしなかったせいで唾液腺が痛い。ほっぺたが落ちるとはこのことだ。うまいうまい。
ぎこちなく粽にかぶりつく尚の口の周りが味噌で汚れる。あまりに真剣に食べるので、その表情に良文は思わず噴き出した。尚は笑いだした祖父を見て一瞬驚いたが、よっぽどうまかったのか珍しく目を細くして口を開けて声を出して笑った。
孫がこんな表情豊かに笑うことに驚いたが、良文もつられて大笑いをした。しばらく二人で腹を抱えて笑っていた。良文はなんだか不思議な感じがした。
(そうか……尚が思ったよりも店の従業員たちや街の人間に可愛がられているのは、こんな可愛げがあるせいなのか……)
良文はどういうわけか尚を今、心の底から可愛いと感じていた。これはいったいどういうわけだろうか? 自分でもこの感情にどう対処してよいのかわからなくなっていた。良文は尚を自分の実子であると信じていた。それは真実ではなく勘違いではあったが、誤解ではあっても自分の情婦が産んだ子を今や愛おしいと思っていることは事実であった。子どもというものがこれほどかわいいとは――良文は自分の息子たちにさえ感じたことがないほどの愛おしさを尚に対して感じていた。
(殺せるわけがあるまい)
そうはっきりと思った。「あの事件」では溺れ死なせる寸前まで行ったことがありながら、良文は、いまはこの尚がかわいいという感情に素直に従いたいと強く思ったのであった。
帰りの下山中に良文は尚の手を自分から力強く引いて歩いた。疲れたふうの尚を最後は背負って歩いた。尚は良文の心を知ってか知らずか、その背中でいつの間にか安心したように眠っていた。
(この子を死なせるもんかい。おれはいままで心がどうかしていたのだ。あの女はどうして自分の子どもを自ら殺すようなことができたのか。わからん。わかりたくもない。だいたいが、おれにはそんなことは無理なのだ)
そう思えるおれでよかった。そう良文は感じていたようだった。ただ、「林雅の肉体を今より忘れることができるか」という問いへの答えは決められないままであった。
尚はぐっすり眠っていた。良文はなぜだか涙が止まらなかった。声を抑えながら泣いていた。久しく忘れていた「流れる温かい涙」をそのままに、尚を大事そうに背負って坂道を下った。
外伝「天窪の葛藤」終わり
©tomasu mowa 2023