やまこえたにこえ
さて、踊りの振り付けという影も形もないものと向き合うときには、作業工程としていくつかの山を越える必要があります。踊りばかりでなく、何かを作るという時には似たような手順があるのでなないのかな、と感じていますが、今日は私の場合の話を。
振り付けを作る時に最も時間がかかるのは、何といってもイメージの段階です。セオリー通りにテーマから臨むときには1年以上ぼんやり考えたりしていて、私の場合、現在では毎年4月8日のお花まつり法要での踊りはこれにあたります。教科書通りの手順を踏む場合。
が、なかなかそんなに手間暇かけて作れるわけではないので、そんな時には曲をたくさん聴き込みます。踊る時にどの曲で踊るのかは、最初にして最重要な決定事項です。イメージに合う曲が見つかった時には、そのあとの作業がとてもラクチンです。ピッタリではないけれど、一応合格点、みたいな曲は、編集して踊りやすくしたりします。音楽はタイムキーパーであり、プロットであり、外れては戻れる安心ゾーンでもありまして、踊りを作りながら上手な距離を探っていきます。
ぼんやりとイメージが上がったところで登る大きな山は、自分の中の理路整然とした正しい人を少しの間眠らせながらの作業となります。
よくあるスピリチュアルを目的とした解放ワークとかは、この山を越えることが目標でありまして、宇宙とつながったり、子どもの頃に戻ったりするわけなのでありますが、我々のようにイイ歳した大人になると理路整然の世界から離れ難くなり、日常生活にも正しい人間が染みついてしまって困る人は(正しい人間であらねば、っていう人かな)こういうワークが必要とされてきます。
理路整然の私を眠らせると、ヤタラメッタラな私が残ります。そのヤタラメッタラな私がテキトーに、ノリノリに、時にダラダラと、やがてはエモく、踊るとも動くともそんなの関係ねー!って動き回る時間がやってきます。ヤタラメッタラだから、振り付けようとしている曲なんか聞いていないこともしばしばで、うっかり違う曲の振り付けが完成したりもします。
ここで、動きのモチーフを取り出す作業をするのです。
慣れていないと、このヤタラメッタラになることについて戸惑う方が多いのですが、別に、神の声が聞こえるまでどっぷり浸かれ、なんて全く言いっていませんので、困ることは起きませんし、どちらかというと休み時間的な楽しい時間です。
この楽しみな時間について恐れを抱く大人が思いのほか多いのはなぜなのか、を風邪で寝込んでいる間思いを巡らせてみました。考え付いたのはこれ。
このヤタラメッタラな時間は、言ってしまえば子どもの頃に遊んでいた時間と同じなので、その時間でこれといった成果が予想できるわけではありません。出来る時もあるし、出来ないこともあります。現代の忙しい大人(もしかしたら子供も)は、無駄な時間恐怖症になっていて、成果の予想できない領域に足を踏み入れることに対して、ブレーキがかかるのかも。そして、自己イメージが「私、ちゃんとした人なんで。」っていう人は、理路整然を眠らせにくいんじゃなかろうか。私も、締め切りが頭にチラつくとヤタラメッタラに行き難くなるし。
ただ、ヤタラメッタラはものすごい天才アーティストなんですが、それだけで作品が世に出るわけではなく、解放したエネルギーを今度は物質化する方向の作業が待ち構えています。
どちらかというと、私の場合はこのギューっとエネルギーを箱に詰め込む作業の方が手間がかかります。次なる山の出番です。
動きのモチーフが散らばったところで、現実世界において自分の体で踊れるように音楽にはめ込む作業へと移ります。これぞ、理路整然の出番であります。理屈とか経験とか、すべてのうんちくを総動員させて、その曲にモチーフを押し込みます。
高校物理でエントロピーの法則っていうのを習いましたが、まさにこれ。
この時大切なのは、自分は地に足を付けた普通の人間で、私の満足は世界の満足、と思うこと。イメージの中の私は妖精のように軽やかにジャンプして、つむじ風のようにクルッと回っても、実際の私は重たくて足は2本で翼は無いし、しかもすぐ疲れちゃうオバサンです。こんな人でも踊り切れるように動きを足したり引いたりしながら、私が満足するように付き合ってあげるのです。夢見る時間が終わって、鏡という現実と向き合う時間でもあります。重さの無いイメージだった段階から移り、やたらに重たい私の身体が動き始めると、踊りがこの世にやってきたな、という感じが漂ってきます。
例えば、家の中を一度に片付けられないのと同じように、一曲も一度に攻略できるわけではないので、細かく細分化させてピースをはめていきます。
とここまで書いて、思いつきました!スゴイ例えを!!!
まるで、お節料理をお重に詰め込むような作業、なのです。
お重に詰まったお節料理は、食べてくれる人々の目にも舌にも響きます。
振り付けられた踊りも、同じ。
蒲鉾はさすがに買ってきましょう、とか、今年は栗きんとんは自分で作ってみましょうとか、それぞれの作戦の元で仕上がったお節のお重は、目にも舌にも家族の皆さんに華やぎをもたらしてくれます。 振り付けも似てる―――。
そして、これも付け足しておきます。
ヤタラメッタラの工程に行きつくのが面倒な時にも、理路整然な脳みそは既製品を使って素晴らしいお節のお重を、いや、素晴らしい踊りを構築してくれます。この点で、理路整然の脳みそだけあればいいんじゃね?と思われる方も出て来そうです。
時には正しいこの考え、どんな時に当てはまるのかというと。
誰かの代理としてクリエイターさんが作る場合とかです。
でも、自分の作品として作り出す時、既製品を素材に使ったり他の誰かが作った素材を使うと作業工程がもう一つ増えることになります。
踊りの場合、その素材(振り付けの動き)を自分の体にしっくり馴染ませる作業です。
先生が振り付けた踊りを踊る場合は、この作業に全勢力を傾けることになります。先生の身体を追体験できるゾーンまで自分を運んでいく練習時間が必要になります。これはこれで、かなりのエネルギーを要します。
自分で作る場合には、自分の動きだけを使うので、この作業が超えるべき山にはなりません。そして、それが自分らしさとなっていきます。
その時々で目指すところが違うので、正しい正しくないの議論はあまり意味が無いのですが、今回はDo It Yourself なのでありまして、私はとっても楽しみにしています。
ということで、自分の踊る分も頑張れよ、という自分へのエールも込めて、完成までの道のりを文章にしてみました。